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電縁都市ふじさわ市民記者養成講座を修了したみなさんです。
 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅132
「歴代沈壽官展」
2011年2月18日

薩摩半島の西海岸は、長大な弧をなして南にのび、羽島崎から南はさらに砂浜
がつづき、わずかに入江があるのは、串木野の漁村である。その漁村のわずか
南に島平(しまびら)という無人浜がある。かれら韓人たちは、島平に漂着した。
―呼ベドモ人ナシ。
という荒涼たる風景であったであろう。
「故郷忘じがたく候」 司馬遼太郎

     
   
  図の透彫香炉は十二代沈壽官の作品  

このほど日本橋三越本店で「歴代沈壽官展」があった。パリ三越で催された
「歴代沈壽官展」の帰国記念展である。1月23日に十五代沈壽官さんの
ギャラリートークがあった。
十五代は薩摩焼について解説した。沈壽官さんのゆっくりとした話しぶりは
九州男児らしく、温かでユーモアに富んだものだった。展覧会場の一室に
200人程の聴衆が集まり立錐の余地もなかった。

     
   
  「薩摩盛金七宝繁地雪輪文大花瓶」 十四代沈壽官  

16世紀半ば、日本では茶道が隆盛していて、貴族、武将、豪商らの間で茶器
の人気が高かった。珍しい茶器は武功の恩賞などに用いられ、時には一国に
値するものもあったという。
16世紀末、豊臣秀吉による文禄・慶長の役で朝鮮に出陣した西国大名らは、
朝鮮から争うように多くの陶工を連行した。この時代、日本ではまだ優れた陶磁
器は現れていない。連行された陶工たちは、その後保護されて島津家では薩摩
焼、毛利家では萩焼、鍋島家では有田焼の祖となった。

沈壽官初代・沈当吉も連行された一人である。島津義弘軍に拉致連行された
が、海路で波濤にのみこまれて薩摩半島 串木野に漂着した。
陶工たちは見知らぬ異国で大変心細く、辛い思いをしたであろう。それでも
生きねばならず、自分たちが持つ技術をもとに生きるため、薩摩の山野に陶土を
探し歩いた。後に薩摩焼を代表する白薩摩の陶土を発見するに至っては26年
もの歳月を要したといわれる。
白薩摩と呼ばれる白磁は、朝鮮白磁のように美しく象牙のような肌質をしている。
島津藩は藩主御用窯として幕末まで陶工と白薩摩を保護した。

     
   
  「錦手ネズミを見つめる母娘像」 十二代沈壽官  

薩摩焼が西欧に知られたのは明治維新直前のパリ万国博(1867)である。西国
雄藩の薩摩は徳川幕府とは別に薩摩琉球国として単独で薩摩焼を出品し、その
美しさで欧米諸国の人々を驚かせた。
明治維新後は廃藩置県のため藩が消失し、陶工たちは藩の庇護が無くなり、
廃業に追い込まれ路頭に迷った。しかし十二代沈壽官は薩摩陶器会社を設立
し、陶工たちを束ね薩摩焼の伝統技術の存続に尽力した。
 1873年のウイーン万国博では、十二代沈壽官が中心となって薩摩焼を出品
し、欧米で薩摩焼の評判を一挙に高めた。十二代は薩摩焼を代表する技法の
「透かし彫り」「浮き彫り」を考案した天才の人で、沈壽官窯の中興の祖となった。

     
   
  「薩摩甲虫花瓶」 十五代沈壽官  

会場には歴代沈壽官の作品が100点ほど出品されていた。なかでも十二代の
作品が最も多く展示されていた。精緻を極めた透彫や浮彫の香炉や花瓶、それ
らに繊細な絵がついており、息をつめて見惚れてしまう。十二代の多くの作品を
見ていると、人の一生涯の可能性は無限なものだなと思わずにいられなかった。

http://www.chin-jukan.co.jp/

 「歴代沈壽官展」の開催に合わせて、同じ三越本店の画廊で十五代沈壽官展
が開かれていた。十五代沈壽官さんは、十二代の仕事を追いかけるような印象
があって、この人も大変な作家だなと思った。 1959年生まれ。十四代と同じく
早大を出て、京都・イタリア・韓国などで修業した。1999年 十五代を襲名。
十四代沈壽官さんは、司馬遼太郎の傑作短編「故郷忘じがたく候」の主人公で
よく知られている人である。

     
   
     


※添付の写真は許諾済み

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅131
「新年おめでとうございます」
2011年1月5日
     
   
     

謹 賀 新 年
本年もよろしくお願い申し上げます


今年のお正月も、藤沢は好天気に恵まれました
皆さまも楽しいお正月を過ごされたことでしょう
陽気につられて、元旦は家内と江島神社へ初詣でした
波がいいのか片瀬海岸には多くのサーファーたち

     
   
     
   
     

正月2日は例年どおり箱根駅伝の応援です
浜見山交差点で校友会の皆さんと校旗を立ててアツーイ声援!
早稲田は18年ぶりの総合優勝でした 長かったですねえ・・
東洋大の柏原君 ことしもステキな山登り・・早よ卒業してくれ!

駅伝のあとはラグビー早明戦(大学選手権 準決勝戦)をテレビ観戦
74−10と期待はずれの大差をつけ早大の圧勝でした
明治の吉田義人監督は学生時代からファンなんだけどなあ〜
また春からガンバレ!

     
   
     
   
     

今年もまた私はウォークと会報編集の一年になりそうです
そんなことをして なんとか健康もクリア出来ているのかも知れません
皆さまもどうぞ健やかに この一年をお過ごしください

(元旦江の島 参道沿いの食堂が火事!幸いにも無風でした 特報写真!)

     
   
     
   
     
   
     
   
     
   
     
 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅130
「藤沢素描(21) 辻堂海浜公園のイルミネーション」
2010年12月16日
     
   
     

12月も中旬になると、木枯らしのような冷たい風も吹きだした。この
季節、散歩は夕方に鵠沼運動公園から県立辻堂海浜公園へ出ることが多い。
いま頃は4時半のチャイムが鳴ると日が暮れる。

     
   
     

辻堂海浜公園では、先週から師走恒例のイルミネーションが始まっている。

辻堂海浜公園 イルミネーション&ライトアップ
花と海と光のハーモニー 2010

北入口のこの花壇の周囲では、今夏5本のリュウゼツランが黄色い花を同時に
咲かせた。センチュアリ− プラントといわれるほど、滅多に見られない花だ。

     
   
     

北入口をまっすぐ進むと花の庭があり、そこでイルミネーションが輝いている。
こども達の声が弾む。赤や青のLEDライトをキラキラさせて、仔犬たちも一緒に
駆け回っている。

     
   
     

江の島水族館もびっくり!
「これなあーんだ?」「なにがいる?」 こども達が口々に叫ぶ・・
ペンギン たこ いか いるか クジラ かめ まぐろ
 ひらめ くらげ イセエビ かに ・・
若いファミリーはいいな! みんなシアワセそう!

     
   
     

「ことしはイルミネーションの数も増えてきれいね」という声が多かった。
軽快なクリスマスメロディーやジャズが、風に乗って聞こえてくる。

     
   
     

イルミネーションは12月25日まで。期間中日曜、祝日にはステージで
音楽イベントもあるらしい。いちどお出かけになってはいかがでしょう。
夕方、相模湾ごしに見る富士山や伊豆・箱根連山のシルエットもこの
季節は特にきれいです。

http://www.kanagawa-park.or.jp/tujidou/news.html

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅129
「藤沢素描(20) カステラ銀装」
2010年11月25日

辻堂新町の「湘南フィル」モールの近くに「Cafe ラ・サール」がある。「カステラ
銀装」というカステラ屋さんが経営する明るく開放的なお店。昼どきは軽食も
あり、いつも楽しそうなお客さんの笑顔があふれている。

     
   
     

最近このお店の前に「大阪産(もん)」という白いのぼり旗が立った。「大阪産
(もん)」とは、大阪府が大阪の食の名品で50年以上も府民から愛され続けた
ものに対して、全面的にバックアップし全国にPRするものだとか。この10月に
「銀装カステラ(青箱)」が認定されたらしい。(HP参照)

http://www.ginso.co.jp/

「ラ・サール」の裏手に藤沢工場があってカステラ等を焼いている。この工場から
関東と関東以北に商品を出荷する。HPによると藤沢工場は昭和58(1983)年に
できた。ことしで27周年。大阪の羽衣工場と合わせ重要な製造拠点である。

「カステラ銀装」は昭和27(1952)年、心斎橋で創業し、本社は今もここにある。
このころ、私は大阪の小学5年生 紅顔の美少年時代だし、なにせ食いもんの
事だから良く憶えている。思い出すままに当時の事を書いてみよう。

まずは「銀装カステラ」という商品名だが、今の人には少し分かり辛いかと思う。
「カステラを銀紙で包装していて・・それがどうしたの?」

昭和27年 大阪。米、小麦粉はもちろん醤油や砂糖、塩・・物資が少なく殆んど
が配給制か量り売りの時代だ。ぼく達の放課後の遊びも三角ベースの野球で、
グラブは布製だった。ピンポン(卓球)が始まった時は、ラケットは木製でラバー
なし。文具・紙や印刷も粗末なものでたまたま雑誌の懸賞に当選して、きれいな
ノートが送られてきた時は、夢心地だったのを今でも忘れられない。

そんな時代に「銀装カステラ」がデパートで発売されたわけだ。昔のデパートは
いまと異なり輝いていたよ!デパートの新聞広告に「銀装カステラ」の商品名が
載っていた。大阪駅前の阪神百貨店では、正面の陳列ケースに銀装カステラが
飾られていた。あの時代に、よく金色のカステラを作れたものだ。舌の上で溶ける
ようなカステラだよ!銀装・・キラキラで鏡のような銀紙だよ!そんな感激や幸せ
が一杯詰まったネーミングであったことを想像して上げてほしい。
母はこのカステラをよく遣い物にしていた。風呂敷に包んで実家などを
訪ねていたものだ。

     
   
     

先週ウォーキング協会の例会で、私は「カステラ銀装」の近く、引地川に
かかる高山橋付近でウォーカーの皆さんを誘導した。大和市や湘南台から
ウォーカーがやって来るのに時間があったので、開店したばかりの「ラ・
サール」に立ち寄って、朝に焼いたばかりのどら焼きを求めスタッフと
食べた。甘さが抑えられ、上品で美味しいどら焼きだった。

戦後、経済が成長し、国も豊かになっていくうち、食材も豊富に出まわり
いつしか食生活や食文化も変わった。洋菓子やデザート、そして和菓子も
味だけでなく外観も素敵になり、まるでアートのようだ。
その点カステラ業界はなかなか展開が難しいのかも知れない。それでも
際限ない食の多様性のなかで、よく健闘している。
「カステラ銀装」藤沢工場は27年の歴史がある。この間、納税と雇用で
藤沢市にもずいぶん貢献してきた。郷土の名産として、みんなで応援して
あげたいと思う。

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅128
「鳥羽美花展@薬師寺」
2010年11月4日

10月23日 小春日和の午後、胸をときめかせて薬師寺の境内に入った。
この日2時、鳥羽美花さんによる自作のギャラリートークがあった。

     
   
     

2時よりも大分早く、展覧会場の聚寶館に行くと、まだ人がまばら。受付
に立ち寄ると、展覧会の図録が積まれていた。「サインの入ったのを頂戴!」
と言ったら「こちらにあります」と横から涼やかな女性の声が聞こえた。
顔を上げると、いつのまにか鳥羽美花さんがそばに来ておられた。きれい!
黒い色のシックなドレスに身を包まれて、微笑んでおられた。びっくり!
「藤沢から来ました。サンケイEXの記事も三井タワーの作品も全部見て
います」中学生のように直立不動で挨拶した。そして暫らくは、透き通る
ほどに白く輝いている先生のお顔に見とれていた。まるで夢のなかだった。

     
   
     

「鳥羽美花展」
  型染めで紡ぐ悠久の都 ― 奈良・ハノイ

ことし2010年 奈良は平城遷都1300年で多くの人が訪れている。そして
ベトナム・ハノイも建都1000年を迎えるそうだ。記念すべきこの年に、
両国の友好関係のさらなる発展をねがい、両都でこの展覧会が開かれる。

http://toba-mika.net/

鳥羽美花さんの作品解説は新作の「凛−西の京より」からはじまった。
これは春の薬師寺を桜の波間から遠望した作品である(HP参照)。展示
された20点に近い作品群は、それぞれにスケールが大きくエネルギーに
満ちあふれ圧倒的な存在感があった。そして歴史を誇る世界遺産の建築や
国宝の仏像群と共に見事なハーモニーを醸し出していた。

5、60人が解説を聞きながら作品を観て廻った。
鳥羽美花さんは、風景そのものが国の形や民度をあらわす、といわれる。
鳥羽美花さんは、うつろいゆくベトナムの風景との出会いを語り、時代や
人々を語り、奈良との近似性についても語られた。
また型染めが日本古来の染色技法であり、その技法の複雑さや風土のため
か、海外に伝わることなく国内のみで継承されてきたこと。そして型染め
が江戸小紋のように意匠性が進むなかで、余分なものがいっさい省かれ、
“引き算”の芸術になったこと。でもご自身は風景を描くときに、空気感
や気配を描くために、西洋的な技法の点描を加える事によって“足し算”
の芸術にしていることなどを話された。(この辺りは2008年8月に、この
コラムで鳥羽美花さんを書いた時に記した)。
また一方で製作過程の難しさや、絹布(白山紬)・糊などの原材料の入手が
どんどん困難になっていることも話された。

     
   
  [祈りの朝−三笠山より]  

薮中三十二さんのこと
薮中三十二さんといえば、この夏まで外務事務次官で、私達には小泉政権
以来 対米交渉や北朝鮮の拉致問題・中国との六者協議などのニュースで
身近な人である。
実は薮中さんがこの展覧会の実行委員長(応援団長!)をされており、
鳥羽美花さんの作品解説が始まる前に自己紹介も無く挨拶された。そして
薮中さんは私達にずっと付き添ってくれていたが、途中信じられない光景
に出くわした。
鳥羽さんは作品を解説しながら聚寶館を一巡りされたが、通路は一間幅
しかなく、私達は2・3列になって進んだ。鳥羽美花さんはマイクを持た
れていたが、ワイヤレスでないので太いケーブルを引きずって広い館内を
一周せねばならなかった。そのとき、歩いている私たちの陰で、ケーブル
を引っ張って整理している人を見ると、これが薮中さんだった!外務次官
が学生のアルバイトのように、狭い雑踏の中でケーブルを引っ張っていて、
誰も気がつかない・・そんなことが私には身がよじれるほどにうれしく、
楽しく、日本という国は何といい国だろうかと思った。
薮中さんの挙措動作や笑い声に接していると、とても骨っぷしの強い人に
感じられ、こんな人に日本の外交が支えられていたのだなと思った。

鳥羽美花さん 京都精華大学芸術学部教授

「鳥羽美花展」2010/10/5~11/10 薬師寺(大講堂・東院堂・聚寶館)
       2010/12/6~12/25 ベトナム国立美術博物館・文廟

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅127
「気になる言葉」
2010年9月28日

レンズなどの精密なガラス製品を磨くのに欠かせない、「レアアース」と
呼ばれる貴重な金属の輸出規制を中国が打ち出して、日本のハイテク産業
の生産活動に影響しかねないという懸念が強まるなか、入手しやすい別の
金属を使う技術が開発され、大きな注目を集めそうです。
「レアアース 別の金属使う技術 」 9月17日 4時14分 NHKニュース
http://www.unkar.org/read/kamome.2ch.net/newsplus/1284674655

情報化時代とは有難いもので、NHKニュースも文字化して読める。
引用も不確かな記憶に頼ることなく、そのまま提供できるのが有難い。
私はこれを6時のニュースで聞いていた。話し手はアナウンサーではなく、
放送記者である。画像では立命館大学の研究室が流されていた。
私は最後の言葉が気になった。「・・大きな注目を集めそうです」
私は「NHKよ・・そこまで言うのか」と思った。

「注目が集まっています」「注目を集めています」
「注目」という言葉が、このように使われてもう10年ほど経つだろうか。
放送・活字メディアに順次広がり、NHKもほどなく使いだした。私は
この間、この言葉遣いにずっとひっかかりを感じてきた。

昭和30(1955)年を挟んで、小中高時代を過ごした私にとって「注目」とは
先生の号令なのだ。校庭での朝礼や集会で、朝礼台の教師は騒がしい生徒
達をたしなめて「注目!」と大声で叫んだものだ。
小学生時代「注目は、注目される、注目を浴びる、注目の的というように
使って、注目が集まる、とは使わない。間違いです」と学習したことを、
私は今でもはっきり覚えている。

言葉は時代が変われば意味も変わるし用法も変わる。だから、ことさら
「注目が集まっています」などの用法に異を唱えずやってきたが、今回の
「・・大きな注目を集めそうです」に私はガマンできない。
こんな変な言葉がこれから横行するのかと思うと、将来の日本語にとても
心細い思いがするのだ。「各方面から強い関心を寄せられそうです」でいい
ではないか。「関心」がいやなら「広く各界から注目(注視)されそうです」
でもいい。

「広辞苑」では語彙の掲載について、言葉が日本人の生活に溶け込み、
日本語として独り歩きを始めたのを見極めてから掲載する、と聞いたが、
「広辞苑」(6版・2008年1月刊)には「注目が集まっています」は未だ
出ていない。

ところで冒頭にあげたNHKのニュースは1センテンスで字数は125字
である。一例であるにしても、一つの文章としては異常に長い。それとも
テレビのニュースでは、これ位は普通なのか。もしそうなら、NHKの
アナウンサーが正しい日本語を話すという神話はラジオ時代のことか。
テレビでは話に画像がつくから、視聴者もさほど苦にならず、話を聞い
てられるが、仮にラジオなどでこのニュースを流すと、聞き手はどれほど
理解できるだろう。

私は今回のニュースで二つのことが非常に気になっている。
映像メディアと活字メディアのことで、今更ながらなのだが・・。
一つは、大小のニュースで、新聞などは書き方スタイルで古典的な、5W1H
とかを準拠して書くのだろうが、テレビではまず画像を要求するはずだ。
ニュースには画の無いものだってたまにはあるだろう。画の無いニュース
の扱いは、制限されたものになるのだろうか。

二つ目は話し言葉と書き言葉の違いである。
冒頭の文章、新聞ならもっと読みやすく書くはずだ。
新聞の文字は大きくなって現在1行13文字なので125字は10行である。
だから125字は平均の3倍くらいの長さだろう。
テレビの言葉は話し言葉であり画像がつくから、私たちから想像力を奪い、
人が持つべき言葉の力を弱める。外国語は知らないが、日本語の話し言葉
と書き言葉の2重構造というべきか、冒頭の文章などを読むとまだまだ
日本語は発展途上だな、と思う。

はるか明治の時代に、言文一致と叫ばれ、漱石や鴎外、子規らが苦労して
日本語の土台を築いてくれた。当時の言文一致と、現在のそれが違うにし
ても、話し言葉と書き言葉の間に、もう少し強く響き合う、或いは交わる
接点が有っていいはずなのだが。

昨今は携帯メールや携帯小説、はたまたツイッタ−とか、私などには分か
らないことも多いが、固有文化の担い手としての言葉の力を弱めること
なく、どんどん強くして次世代に引き継ぎたいと思う。

(最近尖閣諸島付近で中国の漁船と海上保安庁の接触事件があり、船長の
勾留の間、中国がレアアースの輸出を止めたと報道されたが、NHKの
ニュースは、それ以前の9月17日のニュースで尖閣問題とは関係ない。
また、当初NHKのニュースをNHKからリンクできたが、期間が過ぎて
消えたので他の所からニュースをリンクした。)

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅126
「陸上自衛隊 富士総合火力演習」
2010年9月19日
     
   
     

8月の末に、御殿場市の東富士演習場で行われた陸上自衛隊の公開演習を
観る機会があった。「平成22年度 富士総合火力演習」とよばれ、様々な
戦車やヘリコプターによる実弾砲撃はとても迫力があった。

     
   
     

御殿場や足柄・山北町を歩いていると、東富士演習場からのドーンドーン
と体ににぶく響く砲声をよく聞く。一度演習を観てみたいと、思っていた
のだが今回ようやく希望がかなった。

     
   
     

灼熱の炎天下、30,000人程が見つめるなか10時に演習が始まった。
前段、後段の2部構成になっている。前段はいろいろな戦車やヘリが役割
や機能ごとに、主要装備品の実地演習を見せる。後段は戦車やヘリが共同
して行う攻撃作戦を実際に展開した。

     
   
     

いろいろなヘリコプターの装備演習。輸送用ヘリからの空挺降下、車両も
下ろす。

     
   
     

装甲戦闘車の目標砲撃。
1kmほど先で命中すると、光が先に見えて音は少し間をおいて届いた。

     
   
     

戦闘ヘリと戦闘車による敵陣攻撃。

     
   
     

敵陣から遮蔽してこちらを見えなくする白煙。肉眼では白煙しか見えない
が、カメラのレンズはすごい炎を映しだしている。

     
   
  チヌーク(手前)とアパッチ(後方)  

2時間にわたる演習の後は、戦車やヘリコプターなどの展示があり、自衛
隊員の説明を聞く事ができた。

     
   
  コブラ  ベトナム戦争で活躍した  

戦闘ヘリを見ると、80年代のアクション映画“ランボー”を思い出す。
「ランボー 怒りの脱出」ではベトナム戦争時の米軍の捕虜救出作戦で
ランボー(シルヴェスター スタローン)が米軍の将官が操縦するコン
バットヘリコプターと独りで対決する。あのヘリはコブラだったのかな。

     
   
  アパッチ  

最先端の戦闘ヘリ。さすがに迫力がある。

     
   
  戦車橋  
     
   
  地対艦誘導弾システム  

陸上自衛隊は国際的にも貢献が期待されている。数年前にはイラクに派遣
された。今年はパキスタンの豪雨被害者を支援する。

     
   
     
 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅125
「藤沢素描(19) 神奈中バスさん ありがとう!」
2010年8月31日

【神奈川中央交通バス】
神奈中バスは、三浦半島、箱根、足柄を除く県下の全域を運行している。
免許キロ:2144km 輸送人員:2億2,326万人 売上高:約400億円
(以上平成21年度・・いずれも<乗合バス事業>のみの数字)。
私たちの日常生活に欠かせない交通手段で、私も利用することが多い。

     
   
  藤沢駅北口バスターミナル  

最近、神奈中バスでとってもステキな若い運転手さんに巡り合った。
バス停でドアが開くと、マイクの声が外に聞こえてきた。
「大変お暑い中お待ちどうさまでした」・・これを各駅でアナウンス!
走行中の案内も確かで親切だった。途中駅や終点の藤沢駅でも、降りる人
一人ひとりに声をかけている。
「有難うございました・・行ってらっしゃい・・行ってらっしゃい!」
運転手のマニュアルには無いだろうけど、近ごろには珍しい情景だった。

     
   
  学校前踏切  

JR東海道線 藤沢駅から1kmほど辻堂寄りの、日本精工(NSK)付近に
「学校前踏切」がある。この踏切を利用する車は終日多い。
私は自転車で藤沢に出るとき、鵠沼小学校からNSKの方に行く途中で
この踏切を渡るのだが、線路を渡り切った後が実に危険なのだ。線路と
NSKの間の道路、横断歩道に信号が無く、辻堂方面から来る右折車などで
直進車が見えない時が多い。いつもヒヤヒヤして横断歩道を渡っている。
私が神奈中バスに感謝するのが そんな時だ。神奈中バスはいつも横断歩道
の手前で停車してくれているので、安心して横断歩道を渡れる。「安全運転」
「法令順守」が徹底しているのだろう。

鵠沼小から普門寺のあたりで、時どき一人のおばあさんに行きかう。
おばあさんは右手で杖をつき、歩幅が狭くせかせかと歩く。いつもレジ袋
をさげて道路の中央を歩いている。
いつかのこと鵠沼小の方からNSK方面に踏切を自転車で渡り終えると
おばあさんが杖もレジ袋も放り出して、踏切わきの狭く草深い土手にお尻
をついて茫然としているように見えた。私はおばあさんが、車が多く横断
歩道を渡れないのかな・・と思った。自転車を降りて、おばあさんに声を
かけた。そして前後に指で方向を示して、前の横断歩道を渡るのか、或い
は後方の踏切を渡って鵠沼小の方に行くのかと尋ねた。もし道路を渡ると
いうのなら、走行車を止めて、渡るのを お手伝いしようと思ったのだ。
おばあさんは線路の方を指差した。なんだかこの辺は芥川の短編にでも
出て来そうな話ではないか!湘太もまだまだ捨てたもんじゃない!
 そこで私は安心して、自転車でNSKの方に渡ろうと振り返ったら・・
横断歩道の手前で、辻堂方面からの車が1台止まっていて、若い青年が
ハンドルに手をかけてこちらをじっと見ていた。多分私たちのやりとりの
一部始終を見ていてくれたのだろう。私は有難うと手をあげたら、青年は
一つうなずいて車を発進させたのだった。

http://www.kanachu.co.jp/

     
   
  神奈中バス ツインライナー  
 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅124
「藤沢素描(18)カトリック修道院」
2010年8月6日

ことしの夏は、日本列島が連日の酷暑に見舞われている。藤沢も暑い。
この暑さの中を歩いているうちに、突然夢かと見まがう光景に出逢った。
夢、幻じゃないよ、ここは藤沢・善行だよと何度も自分に言い聞かせた。
カトリック修道院「聖心(みこころ)の布教姉妹会・本部修道院」である。

     
   
  内門  

がっしりした門を入ると、左右は濃い緑で大樹が続き、その間を道が
まっすぐにのびて正面に和風の内門が鎮まっている。シスターが私達の
来訪を待っていて下さった。内門も築地塀もお寺の作りなので、西洋の
修道院をイメージしていると、まるで戸惑ってしまう。この緑の空間で
暑さがすでに飛んでしまっていた。

     
   
  聖堂  

内門を入ると、私達にはなじみの立派な太子堂がある。法隆寺の夢殿だ。
八角堂の屋根には宝珠の代わりに十字架がある。この異空間にいると誰
もが驚き、しばらくは茫然と立って見とれているしかないだろう。日本の
修道院なので、建築時(2001年)に和風コンセプトにされたそうだ。

     
   
  聖堂内部(案内書より)  

聖堂の中は意外に広く明るい、そしてやさしい雰囲気である。八角堂の
周囲の壁面が硝子戸で、どの面からも緑樹が見える。硝子戸の内側に障子
がはめられている。天井、壁など、寺院と変わりがない。座り心地がいい
木の椅子が並んでいて、その中には聖書や賛美歌が収められていた。
正面の壁を覆うようにパイプオルガンが立っている。左側に聖母子像。
上から金色の箱が吊り下がっている。聖櫃である。キリストにゆかりの
何ものかが収められている。
(この部分は撮影不可のため案内書をスキャンさせていただいた)

     
   
  聖母子像  

総長のシスターが、修道院の由来をお話して下さった。
聖心(みこころ)の布教姉妹会はカトリック修道院で1920(大正9)年
秋田市においてヨゼフ・ライネルス師によって創立された。1938(昭和
13)年に本部が現在の藤沢市におかれる。修道院は北海道から沖縄まで全
国にあり、社会福祉事業として老人ホームや保育所、教育事業などを運営
している。藤沢市みその台の聖園学園もその一つである。活動域としては
国内の他、東南アジア地域まで含まれる。

     
   
  ハーブ園の一部  

聖堂の中は、とてもやさしく静かな空間で、いつまでも居たい気持に
なる。シスターらの祈りの場所であり、信仰を深められる場所であろう。
聖母子像もパイプオルガンも100年以上前のもので、いずれもドイツから
もたらされたものだとか。
 パイプオルガンの音色を聞きたいという私達の希望に、シスターは皆さ
んが讃美歌「慈しみ深き」をご存知でしたら歌いましょうか・・といわれた。
フィリピン人のシスターがオルガンをひかれ、50人程がしっかりと歌った。
パイプオルガンの伴奏で合唱して、みんな本当に嬉しそうだった。

聖堂の周りも、とてもステキだった。

     
   
  築地塀・・奈良の雰囲気!  
     
   
  聖句などが彫られた時鐘  
     
   
  時鐘にあわせて滝に水が・・  
     
   
  橋掛かりのような・・  
 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅123
「走水海岸」
2010年7月1日

近ごろ横須賀を3度ウォークした。三浦半島は古代〜中世〜近代と歴史に
富むが、中でも横須賀はロマンの風がいつも吹いていて好きなところだ。

     
   
  走水海岸  

3度のウォーク いずれも走水海岸から、観音崎を抜けた。観音崎は水路が狭
く、江戸・東京湾の喉元にあたる。東京湾で、この辺りは最も流れが速く、走水の
名がある。走水海岸から房総半島富津を結ぶ海上ルートは古代の官道である。

     
   
  走水神社 日本武尊と弟橘媛が祭神  

景行天皇の皇子 日本武尊が東征の折に、走水海岸から上総に渡ったという
記述が記紀にあり、ロマンティックな伝説が残っている。この東征に、日本武尊は
妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)を同行していた。走水海岸では暴風雨に遭い
房総に渡れず立ち往生した。そこで弟橘媛はみずから入水して海神の怒りを
鎮め、航海の安全を図ったという話である。

     
   
     

  さねさし相武(さがむ)の小野に燃ゆる火の
    火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも      弟橘媛


入水前に弟橘媛が詠んだ歌である。
相模野の燃えさかる火の中で、私の安否を心配して下さった君よ…
この少し前、日本武尊の軍隊は、不意に敵襲をうけ、草に火をつけられ、火に
追われて九死に一生を得た。その場所はどこか・・諸説があるようだが。
その一つ、二宮町の吾妻山公園には、この歌を解説する案内板があった。
吾妻山の名称も「吾妻はや〜(我妻よ〜)」と日本武尊が戦いながら大声で
呼びかけたので、この名がある、とあった。

唐突だが私はこの歌を読むと、いつも美智子妃を思い出す。美智子妃が
小学生時代に、この歌に想いを寄せられているのである。
1998年9月ニューデリーで開催された第26回国際児童図書評議会(IBBY)で、
美智子皇后はVTRによる基調講演をされた。タイトルは「橋をかける −こども
時代の読書の思い出− 」(“Building Bridges”)。素晴らしい講演でその後、
すえもりブックスから刊行された。

     
   
  「橋をかける」  

この講演の中で、美智子皇后が戦時中、この歌を10歳くらいの時に疎開先で
読まれて、「まだ子供であったため、その頃は、全てをぼんやりと感じただけな
のですが・・」とその思い出を語っておられる。戦時・疎開先という異常な状況の
中で、一人の少女が愛について深く考えていることもさることながら、この少女が
長じて皇妃になられた不思議さを思わずにいられない。

この物語は,その美しさの故に私を深くひきつけましたが,同時に,説明
のつかない不安感で威圧するものでもありました
古代ではない現代に、海を静めるためや,洪水を防ぐために,一人の人
間の生命が求められるとは,まず考えられないことです。ですから,人身
御供(ひとみごくう)というそのことを,私が恐れるはずはありません。
しかし,弟橘の物語には,何かもっと現代にも通じる象徴性があるように
感じられ,そのことが私を息苦しくさせていました。今思うと,それは愛
というものが,時として過酷な形をとるものなのかも知れないという,
やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への,恐れであり,畏怖(いふ)で
あったように思います。

さらに皇后はこの講演の中で次のように話されているのも印象的だ。

一国の神話や伝説は,正確な史実ではないかもしれませんが,不思議とそ
の民族を象徴します。これに民話の世界を加えると,それぞれの国や地域
の人々が,どのような自然観や生死観を持っていたか,何を尊び,何を恐
れたか,どのような想像力を持っていたか等が,うっすらとですが感じら
れます。

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/ibby/

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅122
「藤沢素描(17) 遊行寺の春」
2010年5月20日
     
   
  ハクモクレン (3月中旬)  

ことしも満開のハクモクレンを見ることができた。大きな木だ。放生池
の縁から見上げると、青空を背景に無数の白い花が風にゆれて陽光をきら
きらと反射している。周囲の木々が漸く芽吹く頃に気品のある美しい花を
咲かせて、春の到来を告げているようだ。関東一円の寺院で構成された
「東国花の寺百ヶ寺」では、遊行寺がこの花で選ばれている。

     
   
  花まつり (4月8日)  

「遊行寺」・・正確には「藤沢山 無量光院 清浄光寺」
時宗の総本山である。時宗の法主 遊行上人がおられるところから、遊行寺
とよばれる。

     
   
  一遍上人 (4月中旬)  

時宗は鎌倉時代、一遍上人の開祖である。そして遊行寺は、第4代 呑海
上人が創始した(1325年)お寺である。藤沢は遊行寺の門前町として生まれ
江戸時代には東海道の宿場町として栄えた。

     
   
  いろは坂 (4月中旬)  

いろは坂の両脇の桜がやっと咲いた。総門(冠木門)からの緩やかな登り
参道は阿弥陀様四十八願にかけて四十八段あるそうだ。

     
   
  中雀門としだれ桂 (4月中旬)  

中雀門を内側から見ている。遊行寺は開山以来幾度か火災や震災を被って
いるが、中雀門は境内の建造物の中では最古のもので、安政6年(1859)に
建てられた。紀州徳川家の寄進である。屋根などに菊のご紋と葵のご紋が
ついている。
この門は勅使門で開山忌等に開かれる。中雀門の奥の若木はしだれ桂で
ある。遊行寺には珍しい木が多いが、私はこの季節のこの木が好きだ。
夢二が描く美人画の趣きがある。

     
   
  呑海上人  

遊行寺では開山忌が春秋にある。春は呑海上人、秋は一遍上人の忌法要が
行われる。春の開山忌は4月21-24日である。

     
   
  真円上人(#1)  
     
   
  お札  

私は開山忌にお参りするのは初めてである。ご本堂で掌を合わせていると
お坊さんが中に招じてくれて、信徒の方々と共に真円上人手ずからお札を
いただいた。真円上人は卒寿を過ぎておられると聞いたがとてもお元気だ。お札を頂く時は右手で頂く。

     
   
  ぼたん(#2)  

お札には「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と刷り込まれている。時宗の本尊は阿弥陀如来で、「南無阿弥陀仏」の称名が刷られたお札を、遊行上人が60万人の人々に配られて、極楽浄土に導くことを願われている、という意味だそうだ。時宗では遊行上人が巡られるところで、必ずお札を1枚1枚手ずから配られる
一遍上人は生涯、全国を巡り25万人以上の人にお札を配られたという記録があるとか。鎌倉時代の人口が800万人とすれば考えられない数で、非常に苛酷な行脚であったことだろう。

     
   
  お稚児さん(#3)  

開山忌法要中には放生池では魚が放流される。元禄時代、徳川綱吉の生類
憐みの令で江戸市中の金銀の鯉が遊行寺の放生池に放たれたといわれ、
それに因むものだ。他にも稚児行列や踊念仏があると知らされていたが
見に行けなかった。来春には、きっと拝見したい。

     
   
  本堂  

http://www.jishu.or.jp/


(文中の写真で#1-#3は遊行寺さんのHPからお借りしました。許諾済)

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅121
「御殿場 秩父宮記念公園」
2010年4月27日

御殿場の春は少しおそい。
とくにこの春は御殿場や箱根には4月に入っても雪が積もるほど降った。
ウォークの仲間と4月6日に秩父宮記念公園を訪ねた。母屋の両側の
しだれ桜は7分咲きほどだった。

     
   
  秩父宮記念公園付近  

案内によると
秩父宮両殿下は昭和16年〜27年の間、戦時を挟み御殿場で生活された。
殿下の結核療養のためである。秩父宮記念公園は両殿下が住まわれた
別邸を、平成7年に亡くなられた勢津子妃殿下が御殿場市に遺贈され
御殿場市が園内を整備、平成15年春にオープンした公園である。
敷地面積1万8千坪、標高500mの場所は夏も涼しく園内を1000本の
檜の大木が静かに囲っている。

     
   
  母屋としだれ桜  

この公園の魅力は、母屋を中心とした大きな庭にある。
母屋は築300年ほどの茅葺き屋根の家を移築したもの。ここで両殿下が
戦争を挟む10年余を生活された。当時の姿がそのまま保存されており
ゆかりの品々と共に公開されている。四季折々、大自然の中で両殿下が
愛された庭園の花々、そして多くの催事はいつ訪れても楽しそう。
今の季節は樹齢120年といわれる大きなしだれ桜が人気である。周囲の
山や庭内の草木のなかで緋色の艶やかさに、しばし見惚れていた。

     
   
  農機具など  

当時は皇室といえども食糧事情は多難であったらしい。御殿場別邸もいつ
しか自給自足の生活になり邸内では戦時下に庭が畑に変わり、その広さは
500坪に及んだといわれる。芋やカボチャを作り、時には皇居へ収穫品を
送られたという話も聞いた。妃殿下も殿下の看病の傍ら農婦姿で農作業を
されたらしい。いまも農機具などが残っている。
終戦の玉音放送を両殿下が聴かれたのも この別邸だった。

     
   
  銅像(朝倉文夫氏 作)  

秩父宮殿下(1902-53)は昭和天皇の弟だが、その生涯は50年と短い。
青年時代は、様々なスポーツをされて「スポーツの宮様」と称された。
なかでも登山、スキー、ボートを好まれて英国留学中にはマッターホルン
に登られたという。邸内に銅像があり、その視線の先には宮様が好んだ
端麗な富士の姿がある。

     
   
     

勢津子妃殿下は外交官松平恒雄(旧会津藩主 松平容保の四男)長女である。
明治維新の頃では官軍に対抗する反乱軍の姫君。学習院初等科時代には
御殿場にあった、樺山侯爵別邸で白洲正子さんとよく遊んだ話が、妃殿下
の著書「銀のボンボニエール」に書かれていた。

昭和43年に司馬遼太郎の「王城の護衛者」が刊行される。
この本は会津藩主 松平容保が、徳川慶喜から京都守護職を依頼され、断り
切れずに激動の時代を戦い、終には逆賊の汚名を被る生涯が描かれた中編
小説である。著者によれば権力というものの不思議さを書こうとした作品
で、著者自身の愛着がどの短編よりも深くかかっているという。

この本のあとがきが忘れられない。40年ほど前の話であるが・・。
昭和40年秋に「別冊文芸春秋」にこの小説を掲載直後、著者は会津の人
から多くの手紙を受け取った。とりわけ嬉しかったことは、会津松平家の
ご当主からのお礼の電話を受けたことだという。その電話のなかで、この
ご当主は、秩父宮妃殿下から「すぐお礼の電話をするように」と、そう
いわれたことを伝えた。
司馬遼太郎は「本来、小説はそういう機能をはたすべく書かれるものでは
ないが、結果として歴史のなかに生きさせられた人の鎮魂のことばたりう
ることも、稀有な例としてあるのかもしれない」と書いている。

     
   
  邸内の三峰窯 (加藤土師萌氏 作)  

秩父宮殿下は御病状篤くなり昭和27年1月20日 鵠沼別邸に移居される。
昭和28年1月4日薨去。藤沢市には殿下の名を冠した秩父宮記念体育館
がある。

http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/sports/data15056.shtml

     
   
  1300度に耐熱 両殿下は茶碗や花器を制作された  

私が秩父宮記念公園を訪れたのは2,3年前の秋以来二度目である。
秋にはモミジバフウの大木の落葉が美しく、みんな競って拾い集めていた。
もう一度この秋にも行ってみたいと思っている。

http://chichibunomiya.jp/

http://memory.wanisan.jp/

     
   
  檜林  
 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅120
「藤沢素描(16) 浜辺の歌」
2010年3月1日

あした浜辺を さまよえば
昔のことぞ しのばるる
風の音よ 雲のさまよ
寄する波も 貝の色も

     
   
     

辻堂海岸の遊歩道はよくウォークでも通る道である。この遊歩道に「“浜辺
の歌”作詞場所」というボードがある。作詞の林 古渓(1875-1947)は、父
が羽鳥学校(現在の明治小学校の前身)の教師で、幼少時に辻堂駅近くの
羽鳥に居住していて海辺をよく訪れていたらしい。後年、当時を思い出し
“浜辺の歌”を作詞したといわれる。これに流れるような旋律がついて、
今も愛唱されている。古渓が両親に伴われて辻堂海岸に来た頃は、東海道
線辻堂駅も江ノ電もまだ開業していない。漁師たちが波打ちぎわで、朝夕
魚介類を掬っていたであろうか。

     
   
     

文部省唱歌や明治以来の愛唱歌集とかいわれる歌には、今に歌い継がれる
名曲が多い。「故郷」「荒城の月」「花」・・近代国家として、大急ぎで音楽
も興さねばならなかったのか。かねて文部省唱歌についての資料を読みた
いと思っているのだが文献は少なそうだ。

     
   
     

ゆうべ浜辺を もとおれば
むかしの人ぞ しのばるる
寄する波よ かえす波よ
月の色も 星のかげも

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅119
「医療費節約とウォーク」
2010年2月1日

1月23日の朝日新聞夕刊に医療費節約とウォークについての記事があった。
この記事によると、ふだん多く歩く事によって糖尿病や脳卒中、心筋梗
塞など生活習慣病がかかりにくくなり、医療にかかる費用が減らせそう・・
ではどれほど減らせるのかと厚労省の研究班が歩くことの効果を調べた。
病気治療や入院にどれくらいの費用がかかっているかなどの統計に基づい
て調べた結果、歩きの効果は1万歩あたりほぼ14円になったという。
この記事の全容についてはasahi. comの記事をリンクさせていただく。

http://www.asahi.com/health/news/TKY201001230137.html

この記事にしっかり食いついてきたのが、われらが湘南ふじさわウォー
キング協会(FWA)の平野武宏会長である。いつもの事ながら平野さんの
反応は素晴らしい!会長はこの記事を見て、早速FWAの昨年実績から
FWAのウォーキング効果を計算し、私が編集する「湘南ウォーカー」に
原稿を寄せて来た。 それによると・・

平成21年度 通常例会:41回
1例会歩行距離 平均13km
歩いた距離計 533km
参加者計 11,270名
参加者が歩いた距離合計 6,006,910km
歩数換算(1万歩=約6km) 1,001,151万歩
医療費節約金額が1万歩につき14円だとすると、FWA例会での
年間医療費節約金額は通常例会だけで約1,400万円となる。

すごいじゃん・・FWA!!
この計算式や結果を藤沢市や市民病院、市の保健所に持ち込んでみるか・・
1400万円の10%といわずとも、せめて1% 14万円ほどは
ウォーク運動奨励金にお使い下さいと授与されそう・・。

経済効果だけではない。長寿高齢化社会に健康で楽しく過ごせるように、
いつまでも元気よく、お話しながら歩く・・という私たちFWAの活動の
方がより効果が大きいと思うのだが・・。

(asahi.comにリンク報告済み)

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅118
「茅ヶ崎 烏帽子岩」
2010年1月20日

茅ヶ崎のウォーカーが烏帽子に行こうよと誘ってくれた。茅ヶ崎市観光
協会が主催するものである。海上風もなく穏やかな冬晴れの日であった。

     
   
     

烏帽子岩は茅ヶ崎海岸の沖合1.2kmにある岩礁である。正確には姥島と
いう東西100m 南北60mほどに広がる岩場があって、その中でひと際
高く聳えているのが烏帽子岩である。岩礁の成り立ちは300-600万年前
と聞いた。潮の干満は岩場が見えるか否かですぐわかる。満潮の時は
岩場はすっかり海面の下で、烏帽子岩しか見えない。
そんな烏帽子岩は、堂々として湘南茅ヶ崎市のシンボルなのである。

     
   
     

船は茅ヶ崎漁港からでた。釣り船が4,5隻仕立てられた。茅ヶ崎の海は
昔から磯釣り、沖釣りの人気スポットである。従がって烏帽子岩周辺は
釣り船が多いし、烏帽子岩への渡船もある。水深はおよそ20m。
アジ、キス、クロダイ、サヨリなどが豊からしい。
釣り人たちよ・・干潮の間に釣果をあげろよ!

     
   
     

江の島・片瀬海岸から茅ヶ崎海岸まで約10q、海岸沿いにサイクリング
ロード(遊歩道)が伸びている。茅ヶ崎海岸までは、きれいな冬の富士を
見ながら自転車で走って来たのだが、乗船して船が烏帽子岩に到着した時
富士は雲に覆われて頂上しか見えてなかった。
それでもさすがに間近で見る烏帽子岩は波濤に鍛えられて稜稜としている。
14mというから3,4階のビルの高さだ。高所は海鳥たちの糞で白壁でも
ある。岩礁は波浪に洗われ、ヒジキやハバノリなどの海藻で覆われている。
私は半世紀前に上陸して以来なので大変なつかしかった。

     
   
     

岩場の向こうに江の島や鎌倉の山が見える。拙宅に近い辻堂海岸は、丁度
江の島と茅ヶ崎海岸の中間にある。辻堂海岸は終戦まで日本海軍の演習場
であった。そして戦後は米軍に接収され、米海軍の砲撃演習場となった。
この時、米軍は烏帽子岩を砲撃の的にして、烏帽子岩先端の1mほどを
吹っ飛ばしたという。その後陳情によって烏帽子への砲撃は止んだらしい。

     
   
     

茅ヶ崎の海水浴場が桑田佳祐の“サザンビーチ茅ヶ崎”という名称に
なって10年ほど経つだろうか。そのごChigasakiのCをかたどった
モニュメントができ、そこから見る烏帽子岩がよく雑誌などに紹介されて
いる。あいにくこの日は護岸工事のため、サンザンの光景だが・・。

     
   
     

茅ヶ崎は私にとっても特別な土地である。半世紀前、大学時代 夏休みの
半分を毎年茅ヶ崎で過ごした。個性的な若人が不思議と多く集まり私には
大変なつかしい時代であり、場所なのである。当時、市内に舗装道路は
一中通り一本きりしか無かったと思う。街のあちこちに松の大木も多く
見られて、“湘南”の雰囲気がまだまだ濃厚にあった。

     
   
  「烏帽子岩と富士」  

最後に烏帽子岩に誘ってくれた中村弘道さんの画を挙げたい。
中村さんは茅ヶ崎市在住でFWAのウォーカーである。私が編集する会報
「湘南ウォーカー」にこれまで何度も傑作を掲載させていただいている。
カラー刷りした1月号では、「晩秋の箱根湿性花園」を提供して貰ったが
会員の間で大好評であった。この画は箱根彫刻の森美術館が後援・開催
した「箱根風景画コンテスト」(箱根町主催)で入選したものである。

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅117
「年賀状」
2010年1月11日

ことしの年賀状には少し苦労した。古いパソコンが昨秋にパンク、バック
アップしていなかったので年賀状ソフトとともに住所録が消えてしまった。
とりあえずワードで賀状を作り、宛名は20,21年に頂いた年賀状をもとに
手書きした。これらの年賀状を一枚一枚手に取ると、この間にも物故した
友人や、新しく出逢った人々のものがあり、様々な思いが立ち上って来た。

     
   
     

湘南ふじさわウォーキング協会(FWA)のスタッフは50人程いるが、皆さん
には、メールに賀状を添付してポンと出した。これはラクチンだった!
手間も費用もかからない・・と思っていたら年が明けて返事の賀状が配達
されてきた。こんな人には来年どうしたものかと今から頭をかかえている。

12月には欠礼のはがきもいただいた。目立ったのは友人の母堂の知らせだ。
100歳、102歳、104歳・・すごい!みなさん大往生!女性ばっかり!
明治の晩期に生まれ、さきの大戦をはさみ激動の一世紀を生き抜いた人々。
堂々たる人生ですね。

年をとると、いただく賀状に添えられる一言も少し変わってくる。
「今年こそは心機一転」「飛躍の年」「七転八起」はとっくに消えた。「健康
第一」が圧倒的に多い。「おたがいボケないように頑張ろう」という友人
から同じ賀状が2枚来た。

「高齢のため年賀状による年始のご挨拶は今年限りとさせて頂きます」と
追伸に書かれて来たのは80台半ばの男性だ。来年この方への賀状に
私はどのように書けば良いのだろう。

30年近く手刷りの版画で賀状をくれる友人がいる。甲子園球児だ。毎年
500枚以上刷る筈だが、ことし初めて印刷で来た。元気かな・・と思う。
自作のデッサンや絵手紙、版画など・・便利な時代だからこそ頂く方は
ホントにうれしいですね。

2月21日の青梅マラソン 30kmに60歳代最後の申込みをした、という
のは大学の同級生からだ。青梅マラソン 歴戦のツワモノ。祈・完走!
川柳が好きなウォーカーからも5句ほど詠まれた年賀状。
   元気です 錠剤水で いっき飲み

リタイア後は交友関係も細り、賀状の往来も少なくなるかと思っていたが
ここ1、2年はむしろ増えてきている。ウォーク関係とか校友会の関係
だが、まずは有難く嘉としたい。

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅116
「藤沢の七福神めぐり」
2010年1月4日

 謹 賀 新 年
 本年も昨年同様よろしくお願い申し上げます

     
   
  辻堂海岸から  

藤沢のお正月はおだやかな好天に恵まれました。
年末に寒気団がきて、富士山にもかなり雪が降ったようです。
辻堂海岸からは、平塚の湘南平や箱根金時山の後方にきれいな
富士が見えました。この富士山をみすえて、今日は箱根駅伝の
1日目でした。東洋大の柏原君、今年もすごかったですね。

私はことしもウォークの仲間と過ごす一年になりそうです。
湘南ふじさわウォーキング協会(FWA)の歩き始めは、恒例の「藤沢
七福神めぐり」16kmです。これは1月10日に自由歩行。皆さんも
ぜひご参加ください。ふだん住みなれた町も、いろんな人と歩くと
いろんな発見があって楽しいものです。

http://www.shonan-fujisawa.jp/sub2.html

またこの「藤沢の七福神めぐり」は藤沢市観光協会が主催するもので
私たちFWAが後援します。FWAから記念品がでるほか、完歩者には
観光協会から手拭いカレンダーが100円で譲られます。

http://www.fujisawa-kanko.jp/news_img/09-sitifukujin.pdf

七福神に手を合わせ、年頭のお願いをしましょう。
2010年 とても素晴らしいスタートがきれそうです。

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅115
「ウォーキング (10) 武蔵野」
2009年12月18日

杉並稲門会の友人たちが地元の武蔵野を歩くというので、加えてもらった。
11月末の穏やかな日差しのなか、玉川上水の小さな流れに沿うようにして
緑道がつづき、武蔵野台地を談笑しながらのとても楽しいウォークだった。

     
   
  鷹の台駅付近  

鷹の台駅(西武鉄道)−小金井公園−井の頭公園 (玉川上水経由) 12km

私はこれまで“武蔵野”を広く歩いたことが無いので、今回のウォークで
その風景や雰囲気を少しでも感じられたのがうれしかった。評判に聞いて
いる昔ながらの武蔵野の自然林がよく保存されている。このことは地域の
人々やいくつもの自治体の尽力によるものだろう。

     
   
  玉川上水  

玉川上水は江戸時代、三代将軍家光の時に参勤交代制度ができ、水需要が
大幅に増えたので計画された。羽村市の多摩川から水を引き、四谷大木戸
までの40km余を素掘りで開削したものである。
(玉川上水の歴史は下の小平市のリンクにゆずる)。
昔はこのあたりも、川幅が広く水量も多かっただろう。いまは細い流れが
地面から2mほど下を流れていて、しかも両側の堤から伸びる木々の枝葉
に覆われているので、殆んど水面は見えない状態だ。できるだけ人手を
入れないで、自然にまかせようという地元の人々の配慮なのだろう。

http://www.city.kodaira.tokyo.jp/kurashi/009/009353.html

     
   
     
   
  いずれも小金井公園  

五日市街道に沿って玉川上水が緩やかに武蔵野台地を下る。津田塾大学や
一ツ橋大学が近くにあると聞いた。
広々とした小金井公園に出た。広葉樹林がやわらかな日差しを浴びて
明るい風景である。敷きつめられた落葉の上に広葉樹がのびのびと育ち
樹間をわたる風が気持ちいい。

   
  皇帝ダリヤ  
   
  真弓の実  

晩秋で花の少ない季節だが、小金井公園で背の高い皇帝ダリヤが満開で
あった。皇帝ダリヤは近頃藤沢市内でもよく見かけるが高いものは5m程
もある。また緑道では沢山の真弓の実を見た。実が割れて真紅の種がのぞ
いている。長久保公園にもいくらか真弓の木があるが、実を見たのは今回
が初めてだ。

   
  山本有三記念館  

小金井公園で昼食をとり三鷹駅(JR)経由で井の頭公園に向かった。途中に
瀟洒な山本有三記念館があった。庭を訪ねただけで中には入らなかったが。
この地域には明治以来文人たちも多く住んでいたのだろうか。玉川上水と
いえば太宰治の入水がよく知られている。三鷹の禅林寺には太宰の墓が
森鴎外の墓と一緒に有ると聞いた。

   
  国木田独歩碑  

武蔵野といえば国木田独歩の「武蔵野」が名高い。私は独歩など読んだ
記憶が無いので、これを機会に読んでみた。「武蔵野」はエッセイ風の短編
小説だが、私の力ではとても読みづらく、ようやく中ほどになって何とか
リズムが合いだして少し読めた。なぜ読めたかと考えると、独歩の文章が
歩きながら書いているような描写に思えるからだ。年寄りのウォークに、
ちょうど波長があうのだろうか。こんな一節もある。

武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも
足の向く方へ行けば、必ず其処に見るべく、聞くべく、感ずべき獲物が
ある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩く
ことに由って始めて獲られる。(五)

   
  井の頭公園  

紅葉の井の頭公園がゴールだった。暖かい晩秋の午後に、池の縁で多くの
人々がくつろいでいた。

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅114
「“ジョージ ワシントン”の一般公開」
2009年12月1日

12月5日(土)に米軍横須賀基地で、“グランド イルミネーション”が一般公開されます。
http://www.cocoyoko.net/grand_illumination/index.html

このおり原子力空母"ジョージ ワシントン"(GW)が公開されますので、興味のある方は、いいタイミングなので見学に行かれたらいかがでしょう。
今春コラムにあげましたが、楽しいイベントなのでもう一度ご紹介します。

     
   
     

GWは通常型空母"キティホーク"に代わって昨秋横須賀基地に配備されま
した。

空母"ジョージ ワシントン (CVN73)"の基本データを紹介します
就 役:1992年7月4日
建造費:約4,500億ドル(約4兆円)
推 進:約18年間燃料補給不要の原子炉2基
全 長:332.85m
幅 :40.84m
飛行甲板幅:76.8m
高 さ:73.2m(船底からマストまで)
速 力:30ノット(時速 55km)以上
乗 員:3,200名(空母要員)2,480名(航空要員)
兵 装:シースパロー(ミサイル)発射機3基 ほか
艦載機数:約75機
1日の浄水可能量:400,000ガロン(約2,000世帯への供給量)
建造に使用した鋼材:60,000トン
満載排水量:97,000トン

     
   
     

ハンガーデッキ(格納庫)からアッパーデッキ(甲板)へエレベーターで
昇っているところ。エレベーターは2基あり、通常はここに鼻面を牽引さ
れたジェット戦闘機が乗っかって、甲板にあげられます。

     
   
     

HP注意事項にあるように、艦船見学は正午から3時ころまで。米軍基地は
広く、正門から並び始めてGWまで1時間ほどかかるので注意して下さい。甲板で水兵さんと話したり、タイミングがいいと艦長や横須賀基地司令長官と一緒に記念写真を撮ることができるかも。

ついでながら・・
JRで横須賀駅に出られる方は、折角ですから横須賀駅前の「ヴェルニー記
念館」(横須賀市博物館)に、ちょっと立ち寄られてスチームハンマーを
ご覧になればいかがでしょう。海沿いにヴェルニー公園を歩いて米軍基地
へ向かいます。この公園も、とても気持ちのいいエリアです。
http://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/verny/

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅113
「東山界隈など」
2009年11月30日

このほど京都東山、奈良西ノ京を旧い友人たちと散策してきた。
紅葉狩りの賑わいのなか、楽しいひと時であった。
青蓮院―知恩院―高台寺―清水寺―祇園

     
   
  青蓮院小御所と龍心池  

青蓮院は秘仏「青不動明王」が珍しく公開されるというので訪ねた。
御開帳の目的は、昨今の世間は道徳的退廃がひどく、辛いことが多すぎる
ということでお不動さんのお力によって、善き方向に導いて戴こうという
ものである。近頃はインフルなど厄除け祈願で賑わいらしい。
お不動さんは密教の大日如来の化身だから平安時代から庶民の信仰が篤い。

     
   
  親鸞聖人童形像  

青蓮院は三千院、妙法院と同じ門跡寺院である。孝明帝の輿が展示されて
いた。青蓮院の建築はやさしく回遊式の庭園も美しいが、私は静かな鐘の
音に魅了された。多くの人々が列を作って鐘を打ったが、どれもが涼やかな
音であった。
青蓮院は初めての訪問だが、大昔に読んだ吉川英治の「親鸞」が懐かしい。
いまは小説の内容をすべて忘れているが、親鸞は青蓮院において9歳で
出家、青年時代もこのお寺で激しい求道生活をもった。

     
   
  高台寺 夢  

知恩院を経由して高台寺を訪ねた。
難波のことも夢のまた夢・・と辞世を残した太閤秀吉の菩提を弔うために
夫人の北政所ねねが開創した寺である。徳川家康も政治情勢を配慮して
多大の財政的援助を施したことで知られる。紅葉の名勝であるが、ピーク
には少し早かったようだ。

     
   
  臥龍廊  

境内の開山亭から山上の傘亭に向けて臥龍廊と呼ばれる長い渡り廊下が
ある。傘亭から観ると瓦で龍のうろこを模した臥龍廊の姿がいいのだが
今回は私に腰痛があって登ることが出来なかった。

     
   
  薬師寺金堂  

翌日は小雨のなか、奈良西ノ京の2大宇を訪ねた。薬師寺も唐招提寺も
深い樹々の繁みのなかにある。
薬師寺は3年ぶりか。青丹によし・・奈良の都の建物、白壁と緑や朱に
塗られた金堂や講堂、西塔の姿が小雨の中でくっきりと鮮やかだ。
東塔の改修工事が始まっている。いま両塔を観ると、西塔が僅かに高いが
千年後には東塔と同じ高さになると聞いた。

     
   
  唐招提寺金堂  

唐招提寺の南大門を入ると八本の円柱が並ぶ金堂が正面にある。金堂は
10年にわたり平成大修理が行われ、この11月1日に落慶法要があった。
改修は耐震性など、内部的なものも多く外観は殆ど変わらない。
境内に松尾芭蕉の句碑や会津八一の歌碑がある。

  若葉して 御目の雫 拭はばや     松尾芭蕉

  おほてらの まろき柱の月かげを
    つちにふみつつ ものをこそおもへ     会津八一

     
   
  唐招提寺境内  

唐招提寺には天平期や鎌倉期の重厚な建築が数多くあり、それぞれに古色
を帯びて堅牢な印象がある。金堂や講堂は天平・奈良期の造営とあるから、
唐の長安の街を歩いていると想像しても許されるはずだ。
これら蒼古とした建物の内部には、大きな金色の盧舎那仏や千手観音、
薬師如来そして鑑真和上がおられるし、なにより東山魁夷さんの鮮やかな
障壁画、鑑真和上招来を描いた「濤声」や襖絵が並んでいるはずである。

薬師寺や唐招提寺などは、いつお参りしても変わらぬ風景でそこに在る。
そんなこと当り前なのだが、特に奈良のお寺には、訪れるたびに安堵を
おぼえ、幸せな気分になる。

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅112
「奥入瀬 秋色」
2009年10月29日
     
   
  阿修羅の流れ  

このほど、東北地方へのパックツアーに家内と出かけた。
 仙台―平泉―角館―雫石―小岩井農場―十和田湖・奥入瀬渓流
中でも奥入瀬は初めてだったが、期待にたがわず美しい秋景色が見られた。
すみきった空気のなかで、ブナやカエデなどの秋色がとても気持いい。
いくらか写真を撮って来ましたのでご覧ください。

     
   
     
     
   
     

奥入瀬渓流は水源の十和田湖から焼山までの14qの流れをいうらしい。
国の特別名勝、天然記念物に指定されている。深い自然林や点在する小滝
の中を縫って、ときに早い瀬となり、よどむ淵となり、ゆるやかな瀞と
なって流れる 変化に富んだ景勝である。

     
   
     
     
   
     

渓流に沿って遊歩道が整備されていた。道が水面とほぼ同じ高さにある
ので楽しく歩ける。写真も撮りやすい。私たちは渓流のなかほど、雲井の
滝から石ヶ戸まで3km位を1時間ほどかけて歩いた。

     
   
     
     
   
     

3kmの間、鳥の声がついに聞こえなかった。むろん姿も見えない。
一時的な現象だろうが、ガイドさんに訊いても良く分からなかった。

     
   
     
 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅111
「あの夏、少年はいた」
2009年9月1日

     少年も少女も齢(よはい)重ねたり
     ふつふつと粥煮ゆるときのま

8月15日夜、なにげなくテレビを見ていて「あの夏、60年目の恋文」
(NHK/BS)をみた。60年前の戦時下と現在を往き来するドラマ風の
ドキュメンタリーに、私はいつしか引き込まれていた。

     
   
  「あの夏、少年はいた」  

1944(昭和19)年6,7月
奈良女子高等師範学校(現 奈良女子大)付属国民学校 4年男子組に
教育実習の雪山汐子さん(20)が配属される。34人のクラスである。
    「国そのものがギシギシと壊れ始めたまさにそのとき、
     彗星のように顕れた<雪山先生>は、あの教室いっぱい
     に計り知れない喜びを私たち子供たちにふりまき・・」
時代は国威宣揚や挙国一致の暗く重い空気に満ちていた筈だが、この
学校には まだ自由で明るく豊かな教育現場があった。

2003年8月
69才の男性がNHKの終戦記念特集のDVDをひとりで見ていた。それは
1979年の再放送番組で「昭和万葉集」と題されたものだ。見進んでる
と、むかし見慣れた飛行機のモノクロの写真があらわれ、そこに一首の
短歌がスーパーインポーズされた。

     君が機影 ひたとわが上に さしたれば
     息もつまりて たちつくしたり
                          川口汐子

詠み人がインタビューされている。20歳で結婚した相手は海軍航空隊
の訓練教官。結婚後まもなく特攻隊員と共に出撃することになった・・
「汐子」は恋い焦がれた先生の名前であった。書斎から古いアルバムを
持ち出し 汐子先生を確かめた。すると多くの記憶がよみがえり眩暈と
しかいいようのない感覚に襲われる。

    「その間わたしのいる部屋の外には、日頃の街はなく、
     地球もなく、そして音もない、ただ無限の闇の宇宙
     の中で、うずくまっている自分の意識だけが部屋と
     ともに浮遊しているような感覚、この感覚を味わう
     ために自分は生まれてきたのかな……それはそれは
     甘美な時間でした」

テレビ画像を見て男性は川口汐子さんに手紙を送る。そして翌年姫路に
川口さんを訪ねる。

「あの夏、少年はいた」(れんが書房新社2005)は、その後のお二人に
よる往復書簡をまとめた本である。雪山先生の「教生日記」も紹介され、
生徒や教師たちの学校生活がしだいに明らかになっていく。

    「寮ではあすタナバタマツリをしませうよと三年生の企画。
     色とりどりの紙が配られる。星への願ひも祈りも、誰しも
     痛いものがあるだらう。そして本当の願ひは心の中に書く
     だらう。おふとんかぶって、少し泣く」 −教生日記−

お二人は今もご健在である。

川口汐子さん(1924生)
姫路市在住 歌人、児童文学作家

岩佐寿弥さん(1934生)
東京在住 映画作家、TVディレクター

2006年8月
「あの夏、少年はいた」を原作にNHKが「あの夏、60年目の恋文」を
製作・放送した。実際の川口さんと岩佐さんがメインキャストである。
このほど私が見たのは、この番組の再放送であった。

「あの夏、少年はいた」には、お二人と関係の深い人々の感想文も収め
られている。このなかで、なかにし礼さんが「人間は誰でも、心の中に
追憶の映画館を持っています」と書いておられる。
私もこの本を読んで、お二人の数奇な運命におどろき、人の世のすばら
しさを思い、また時間のもつ不思議さを思った。

今回 知人にこの本や番組のことについて聞いた。どうやら双方とも
評判になったものらしい。迂闊なことだった。
この本は、お二人のお人柄の所産であるが、お二人の感性や観察力、
表現力が豊かであったからこそ生まれたものだとも思う。
藤沢市の図書館にもあります。ご一読いかがでしょうか。

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅110
「ウォーキング(9) 夏の鎌倉 天園コース」
2009年8月20日

この夏も何やら過ごし辛い。局地豪雨、台風、地震・・各地に
河川の氾濫、土石流、がけ崩れなど大きな災害があり、多くの
被災者が、この暑さの中で大変つらい生活を強いられている。
8月7日 立秋。近畿地方などは梅雨明けとほぼ同時に立秋、
そして夏の甲子園だから人々は、きっと驚いているに違いない。

立秋を翌日に控えた6日、ウォークの一木会40人ほどと鎌倉の
天園コースを歩いた。いくらかの写真を挙げます。

コース:北鎌倉駅―明月院―天園ハイキングコースー大平山―
    横浜自然観察の森―大丸山尾根道―瀬上市民の森―
    港南台駅 11.5km

     
   
  明月院  

天園コースは鎌倉のハイキングコースの中でも、最もポピュラー
なコースの一つだ。秋には鮮やかな紅葉の名勝となる。ただ鎌倉
の山々は低いのにアップダウンがきつく、大小の石や磐根、樹木
の根、苔なども多く、ウォークは結構きつい。ストックがあると
ラクだ。(鎌倉の最高峰は大平山 標高159m)

     
   
     
   
     
   
     

明月院の横から上り、建長寺の裏山、半僧坊の裏手を往く。覚園
寺への岐れ道を経て金沢街道方面に進むと大平山だ。大平山を下
ると、市境を越えて広い谷戸にでる。「横浜自然観察の森」だ。
ここにはカシやコナラの深い森があり、鳥や昆虫が多く見られる。
案内によるとイタチ、ノウサギ、フクロウなどもいるようだ。

     
   
  ハグロトンボ  
     
   
  クズの花  

横浜市最高峰の大丸山(標高156.8m)から瀬上市民の森を経由
して港南台駅に出たが、この辺りは他にも市民の森が多く気持の
いいところである。途中でハグロトンボを見た。北鎌倉、長後に
ついで今夏3度目だ。

解散後、港南台でコーヒを飲んでいると、八幡宮のぼんぼり祭を
観に行こうという話になった。ウォークの帰りで、まだ真っ昼間
だから、灯など入ってないが観に行くことにした。
榎本孝明、朝丘雪路、石原慎太郎、坂田藤十郎・扇千景夫妻、平
山郁夫画伯、浄智寺の朝比奈宗泉師、東大寺の守屋弘斉、森本公
誠老師、円覚寺の足立大進老師ら、今年も楽しい書画が400本、
参道にかざられて涼しげだった。一部の写真を紹介します。

     
   
  夏越しの茅の輪  
     
   
  植木孝明さん  
     
   
  朝比奈宗泉師  
     
   
  守屋弘斉老師  
     
   
  平山郁夫画伯  
 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅109
「藤沢素描( 15 )  銀河鉄道の旅」
2009年8月10日

      するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、
     銀河ステーションという声がしたかと思うと、いきなり
     目の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万のほたるい
     かの火を一ぺんに化石させて、そらじゅうにしずめたと
     いうぐあい・・。
                 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」

     
   
  KAGAYASTUDIO 許諾済  

7月1日に湘南台文化センターのプラネタリウムがリニューアルした。
私は子供の時からプラネタリウムのファンで、今回も早々に出かけた。

http://www.kodomokan.fujisawa.kanagawa.jp/

番組は2本ある。(入場は入れ替え方式)
“プラネタリウム”では、当日の星空や、太陽系・銀河系など宇宙を
生解説したあと、スペースレスキューのアニメを通して、三次元の
データで宇宙のひろがりを見せてくれる。新鋭のデジタル機だけに
さすがに迫力がある。

http://www.youtube.com/user/KAGAYASTUDIO

http://www.kagayastudio.com/

他の1本は全天周映画「銀河鉄道の夜」だ。ジョバンニとカンパネルラ
の二人の少年が銀河鉄道に乗って四次元の世界へ旅に出る、なつかしい
宮沢賢治の代表作。これがとてもファンタジックで、こわいほど美しい!

直径20mのプラネタリウムドームをキャンパスにして描かれたフル
デジタルの壮大な画像。360°に広がる銀河を往く星めぐりの旅だ。
白鳥、わし、さそり、ケンタウルス・・自分が実際に天空の汽車に
乗車している・・。こういう世界があるのかと、久しぶりの興奮と
軽い恐怖感を味わった。全編にながれる優しい音楽と、きれいな
朗読も天上のものとしか思えず、とても気持良かった。

この映画は全国で30館ほどのプラネタリウムで上映されている。
子供にも大人にも、夢とロマンを美しく展開して見せてくれる。
夏休みにご家族づれでいかがでしょうか。

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅108
「ことしの夏期講座」
2009年7月27日

7月18日から4日間、ことしも円覚寺の夏期講座が開かれ
校友のYさんとでかけた。私は20、21日の2日間出席した。
足立大進老師が相変わらずお元気なのが嬉しい。円覚寺管長を
つとめて30年になるそうだ。「宝所近きに在り」のテーマで
連日楽しい法話を聞かせて頂いた。

ゲスト講師とテーマは
20日 中西 進(文化功労者)「失われた万葉の心」
    広岡達朗(元プロ野球選手)「勝負の極意〜監督の決断」
21日 観世清和(観世流26世宗家)「能の心と伝承」
    小泉純一郎(元首相)「思うようにいかないのが人生」
どなたの話も本当に楽しく、私達の期待に応えたものだった。

観世清和さんは1959年生まれ。1990年に家元を継承。観阿弥
世阿弥から伝わる「初心」「秘すれば花」「離見の見」など、多く
の話をして、最後に「老松」(祝言小謡)を謡った。面を外して
発せられる声のすばらしさに酔った。

さらに家元は私達にプリントを用意し「老松」の指導をして
くれた。数百人の善男善女が3度も、家元につづいて発声した。
円覚寺の大方丈を揺るがして、とても気持が良かった。
「大変上手になりました。皆さんは観世家元から謡を習ったと
人に言ってもいいが、教えないように」と言って話を締めた。

小泉さんは解散本会議に出席するため一時間ほどの話となった。
多勢の拍手に迎えられ「今日は議員として最後の話になります」

小泉さんは円覚寺と浅からぬ縁を話し、首相に就任した時、老師
から、このような気持で政治をすればいいと軸を頂いたという。
軸には「風吹けども動ぜず 天辺の月」(たぶん、軸は七言絶句)
「漢詩とは不思議なもので、壁に掛けた時は何でもないが政局が
進むにつれ妙に意味を持って来た・・」と話した。

小泉さんは首相当時の政治も軽く振りかえり、いろんな話をして
禍福はあざなえる縄の如し、という話をした。また自身が好きな
孟子や高杉晋作について語り、夏期講座最終講を終えて、大きな
拍手に応えながら国会に向かった。

講座の帰りにYさんと境内を歩いた。円覚寺は漱石ゆかりの寺で
ある。小説「門」には円覚寺の描写が多い。

     
   
  帰源院 門  

この春、私たちは有難い御縁をいただいて、日頃は公開されない
円覚寺の塔頭を多く拝見した。帰源院もその一つ。ここは明治27
年末から28年初頭にかけて15日間、漱石が円覚寺に参禅した折
滞在したところである。「門」では一窓庵として描かれている。
「一窓庵は山門を這入るや否やすぐ右手の方の高い石段の上に
あった。丘外れなので、日当りの好い、からりとした玄関先を控
えて、後の山の懐に暖まっている様な位置に冬を凌ぐ気色に見え
た。・・」

     
   
  句碑  

漱石は明治30年夏にも帰源院を再訪し、「帰源院即事」と題し
俳句を2句残している。

   仏性は 白き桔梗に こそあらめ
   山寺に 湯ざめを侮る 今朝の秋

私たちが帰源院を訪れた春には、庭の小路の両側に小さな菫が
紫色の花をつけていた。

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅107
「WBCとイチローの舌禍」
2009年7月1日

マリナーズ イチロー選手の快進撃が続いている。5月、6月と絶好調だ。
6月24日には今季100安打を記録した。63試合、291打席目らしい。そして
翌25日には先頭打者本塁打を含む4安打を放ち打率を0.369まで上げた。
残り90試合で、9年連続200安打まであと96本、メジャー2000本安打まで
あと91本である。イチローのプレーが輝いてチームも好調をキープしている。

この春“侍JAPAN”がWBCを2連覇して、私たちを興奮の渦に巻き込んだ事
はまだ記憶に新しい。力・技が秀でた個性豊かなスタープレーヤーの集団
が各国と試合を重ねるごとに、融合し、強くなり、遂には韓国を破り優勝した。
米国や韓国のパワーベースボールに対して、きめ細かく緻密なプレーを
要求するスモールベースボールがWBCで連覇した意義は大きい。

     
   
  “Number” WBC特集号  

韓国との決勝戦、10回表にイチローが決勝打を放ったシーンに、私も酔った
一人である。だが1点だけ、嬉しいのだがどうにも合点できず腑に落ちない
ことがあった。それはなぜ韓国はあの打席でイチローを敬遠しなかったかと
いうことだ。私と同じ思いを抱いた人も、きっと多かったはずだ。

決勝戦は3−3で延長戦に入った。10回表2死1・3塁で打席にイチロー。
イチローがどんなに不振でも、メジャーならこの場面は敬遠だろう。
2球目に1塁走者の岩村が2盗して、2,3塁となり1塁ベースが空いた。
この場面ではイチローを敬遠して満塁にし、守りやすくするのが野球の
常識だ。ところが林昌勇投手(ヤクルト)は残り6球全て勝負に出た。
捕手も座ったままだし、ベンチの監督も敬遠を指示している様子もない。
結局イチローは8球目を痛打し2点を叩き出した。列島を歓喜の渦に巻き
込んだセンターへの打球はテレビ画面から飛び出して来そうだった。
韓国はなぜイチローと勝負したのだろう?

この疑問に一つの回答がでている。
「イチロー選手、舌禍が幸い」(サンケイEX 4/22「古今往来」福島保)
この記事の中で筆者は、韓国の監督が「敬遠の指示を出したがうまく伝わ
らなかった」と言っているが額面通りには受け取れない。むしろ韓国には
敬遠する気などさらさら無かったろう、と以下のように書いている。

3年前の第1回WBC。イチローは韓国戦を控え「向こう30年、日本には
太刀打ちできないと韓国に思わせるような戦いをしたい」と発言した。
これが韓国チームはもちろん、韓国国民の敵がい心に火をつけた。ただで
さえ日本戦には闘争心をかき立てるお国柄、敬遠は勝負を避け敵に背中を
見せることである。まして相手がイチローでは逃げるわけにはいかない。
「向こう30年・・」韓国の国民感情がイチローへの敬遠を許さなかった
とすれば、この一言が日本の連覇に繋がったことになる。口は災いのもと
というが、天才にかかると舌禍も福に変わるのかもしれぬ、と。

私はこの記事を読んで納得しWBC連覇後モヤモヤしていた疑問も消えた。
その一方で、もしあの打席でイチローが空振り三振などをして、日本が
負けでもしていると、韓国国民のボルテージが急上昇したろうなと思った。

私は今回の“侍JAPAN”は、わが国の球史に残る最強のチームだと思う。
30年、50年後に球史が回顧されるとき、このチームは際だって輝かしい
光彩を放っているだろう。日の丸を背負ってプレーすることが、どれほど
過酷なことか・・。イチロー、松坂、城島ら多くの選手が、シーズンに
入って次々と故障者リストに入ったことでも伺える。勝利の栄冠のかげに
彼らの受難を記憶していたい。イチローはすでに活躍しているが、他の
選手らが一日も早くグランドに戻り活躍することを願っている。

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅106
「梅干しのうた」
2009年6月25日

先週 藤沢市北部の遠藤地区でシニア(市老連)のウォークをお世話
した。小出川沿いであじさい祭が開かれていて、その周辺を歩いた。
それぞれの紫陽花には植えた人の名札がある。
「○○さんの奥さんの花はよく咲いてるけど旦那の花はだめだな・・」
「そこはウチの畑でよ・・昔は小出川には蛍がいっぱい湧いていたね」

奥さん方のこんな会話も耳に入ってくる。
「ことしは梅が豊作だというのに、値段はいっこう変わらないねー」

     
   
     

ウォークの後 「遠藤ふれあい農園」でお昼を使わせてもらった。
畑仕事の皆さんの休憩所だろう。野菜の即売もしていた。ふと
板壁を見上げると大きな紙に「梅干しのうた」が墨書されていた。


   梅干しのうた

   二月三月花盛り
   うぐいす鳴いた春の日も
   楽しい時も夢の内
   五月六月実がなれば
   枝からふるい落とされて
   近所の町へ持ち出され
   何升何合はかり売り
   もとよりすっぱいこのからだ
   塩につかってからくなる
   しそにそまって赤くなる
   七月八月暑いころ
   三日三晩の土用干し
   思えばつらいことばかり
   これも世のため人のため
   しわはよっても若い気で
   小さい君らの仲間入り
   運動会にもついてゆく
   ましていくさのその時は
   なくてはならないこのわたし



このうたは昭和10年代のものだろう。この地域の人がつくったものか
或いはもっと広く知られていたものだろうか。現代かな遣いで書かれて
いるが、新体詩の名残りがある見事な七五調だ。いずれにしろ、こんな
詩を読むとユーモアの中にもほろ苦さが混じる。そして自分らが、ほろ
苦さを実感する最後の世代だろうなと思うと少し悲しくなるのだ。

思えばつらいことばかり
これも世のため人のため

作者は、この2行を書いた時、平和で幸せだった家庭を想ったかも
知れない。でも最後の2行をつけ加えて、きらびやかに時代を飾る。

ましていくさのその時は
なくてはならないこのわたし

つゆ・・
梅雨(ばいう)の呼び名は古く中国から伝わったらしい。遣隋使が梅の
実を持ち帰って来た。梅の実が黄熟していよいよ梅雨本番を迎える。

     
   
     
 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅105
「東慶寺 岩がらみ」
2009年6月11日

今年もぼつぼつ入梅の季節だ。お寺や公園のアジサイの花も、雨に濡れて
日ごとに色を変えている。そんな花々につられて、久しぶりに校友らと
北鎌倉のお寺を散策してきた。
東慶寺 円覚寺 英勝寺 寿福寺   いいひと時が過ごせた。

     
   
  岩がらみ  

東慶寺で岩がらみが特別公開されている。今年が3回目だ。本堂の後ろの
切立った崖に、白い花が一面に咲く。アジサイと親戚らしく、花の形が
よく似ている。異なるのは、この無数の花が一本の木についていて、岩を
這っていることだ。緑を含んだように見える白い花の緞帳は圧巻である。
私は去年につづき2度目だが、花数は去年よりやゝ少ないかもしれない。
(岩がらみ 特別公開は14日まで。時間に制限があります)
http://www.tokeiji.com/info/info.cgi?view=00000009

東慶寺は花の寺と別名があるように、この季節も庭の多くの花が美しい。
各種アジサイのほかに、花菖蒲、金糸梅、夏ツバキ・・そして岩たばこも
もう充分に可愛い紫の花をつけている。季節ごとの花便りについては、
住職夫人による美しいブログ「まつがおか日記」がある。
http://tokeiji.exblog.jp/

     
   
  黒姫紫陽花と花菖蒲  

一般に東慶寺は駆け込み寺、縁切り寺として名高い。鎌倉時代中期の執権、
北条時宗の夫人 覚山尼が開創した尼寺である。
時宗といえば、2度にわたり元寇の襲来を防いだ日本史のヒーローだ。
若くして禅に帰依し中国から無学祖元を招いた。北条時宗は34歳で病没
するが、無学祖元が開山した円覚寺にいまも眠っている。
東慶寺は時宗が没した翌1285年、夫人の覚山尼が開創、女人救済の尼寺
として、夫婦縁切りの寺法を明治維新まで引き継いだ。しかし明治政府に
よって、その寺法は終止し、さらに明治30年代になって男僧が住職と
なった。現在は円覚寺派の禅寺である。

東慶寺の境内は花ばかりではない。覚山尼ら歴代住持の墓や、明治以来の
先哲の墓がびっしりとある。安倍能成、岩波茂雄、西田幾多郎、和辻哲郎
前田青邨(筆塚)、鈴木大拙、高見順、谷川徹三夫妻(谷川俊太郎の両親)、
小林秀雄・・そして「向陵塚」と彫られた旧制一高生の記念塚などがある。

     
   
  亀ヶ谷坂から英勝寺へ  

円覚寺、英勝寺、寿福寺・・むし暑い鎌倉も、雨に洗われてさらに美しい。
気分をリフレッシュするために、また訪ねたいと思う。
http://www.tokeiji.com/pc/index.html

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅104
「旧吉田茂邸 焼失」
2009年6月2日
3月22日早朝 大磯の吉田茂元首相(1878-1967)の旧吉田茂邸から出火
木造2階建ての母屋が全焼し、周辺の樹木にも延焼した。
よく知られているように 本邸は「吉田御殿」とよばれ、めまぐるしい
戦後政治を彩った舞台である。庭にたたずむだけでも、気のせいか粛然
とした気持になる所であった。
     
   
  本邸  

吉田邸は背後が相模湾に面した高台にあり、この季節は新緑の森に囲まれ
ている。敷地10,000坪、建物300坪、数寄屋風和風建築(木造2階建て、
総檜造り)で、内門から奥にすすむと広い庭に心字池があり、池の周囲を
歩くことができた。庭から母屋への石段を上る途中、右側の樹木のなかに
七賢堂が埋まっている。

     
   
  心字池  
     
   
  七賢堂
岩倉具視、大久保利通、三条実美、木戸孝允、
伊藤博文、西園寺公望、吉田茂の
七人が祀られている
 

資料によると吉田邸は1884(明治17)年 吉田元首相の養父、吉田健三氏が
建設。今回焼失した本邸は、吉田元首相が1925年に建設し、戦後 外国
からの貴賓を招くため多大の私費をかけて増改築したものである。(戦後
日本には外国の元首らを招く迎賓館がなかった)。
吉田邸は西武鉄道の所有であるが、神奈川県は最近 県立公園として整備を
計画していた。焼失直後の24日には、土地の購入費など26億円の予算が
県議会で可決される予定だったという。

     
   
  内門  

内門は日米講和条約を記念して建てられた。姿のとても美しい門である。
「講和条約門」とか、門の形が甲に似ているので「兜門」とも呼ばれて
いるらしい。
内門を内側から見ている。門の向こうに2人のボランティアが見える。
大磯町の観光を支えている人々。町の貴重な宝物を焼失して、彼らの
哀しみと無念さを思う。

     
   
  吉田茂銅像  

吉田茂邸から望む相模湾は美しく、見晴らしが雄大である。吉田茂銅像は
この相模湾に面して立っている。富士山を背にサンフランシスコを見つめ
ているらしい。
このほど海沿いを走る西湘バイパスから吉田茂邸を見た。新緑の森の中に
吉田茂邸の焼け跡だけが茶褐色に広がっていた。そして焼け跡を背景に
緑錆を帯びた銅像が寂しく立っていて、堪らなく辛い思いがした。

     
   
  吉田茂元首相 愛用のベンツ  

ついでのことながら・・
私が吉田茂邸を見学した昨秋の同じ頃に、銀座のヤナセで吉田さんが愛用
したベンツが展示された。1963年式の高級セダン「メルセデス・ベンツ
300SE ロングセダン」。黒光りする大きな車体は全長4.98mあり、当時の
価格で530万円。残念ながら私が訪ねた日は定休日で、シャッター越しに
しか見られなかったが・・。厳粛な美しさとでもいうか、 車を見て感動
したのは初めての体験だった。

エピソードがある。
吉田さんは首相在任中、ドイツのアデナウアー首相(当時)にベンツを
買う事を約束したが、国に輸入制限があって買えなかった。そのご63年
の吉田さん85歳の誕生日にヤナセの尽力で、このベンツが届けられたと
いわれる。吉田さんは約束を守ることができたのを喜び、アデナウアーに
電報で報告した。豊かになった現在の日本では、とても想像できない話だ。
このベンツに孫の麻生首相も同乗したと思われるが・・どうか。

3月22日 早朝のテレビに私は呆然とした。耳を疑った。嘘だろ!
「ただいま入ったニュースです。旧吉田茂邸が出火しているそうです。
出火原因はまだわかりません」
大磯町の観光協会は、吉田邸を毎年 春と秋に特別公開してきた。私も昨秋
初めて応募したが、大磯町の多くのボランティアの行き届いた応接に感心
した。大磯には歴代宰相らの別荘のほかにも、鴫立庵、旧島崎藤村邸など
観光スポットが多い。大磯は町をあげてこれらの歴史的文化財を大切に
守ってきて公開している。なかでも吉田邸は吉田さんとともに、大磯町の
宝であり人々の誇りでもあったろう。

「町のみんなで頑張ってきた。言葉が出ない」
旧吉田邸の男性ガイドボランティア(67)の言葉である。(朝日新聞)

http://www11.ocn.ne.jp/~oiso/


このコラムについては、公開当日が曇り空で全景がくらく和風庭園も
寂寥感が漂っていたので写真をあげたくなかった。新緑の今年5月に
吉田邸を再訪し再度写真を撮って挙げようと考えた。その矢先に吉田邸が
焼失しコラムに挙げる意味があるのかと思った。同様にこれから神奈川県
による吉田邸の復元も検討されるときいたが、私には虚しい無力感に
襲われたまゝ今に至っている。

     
   
  旧吉田茂邸から見た相模湾と西湘バイパス  
 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅103
「堀明子詩集展『四季の色』」
2009年3月26日

   ももいろと、若草色の春がきました。詩集『四季の色』展を、
   13年ぶりに、関西で開催することとなりました。
   一人の少女が、野の花、庭の花、雨、風、雲・・など身近な
   自然をいつくしみ、その時々に感じながら、詩に書きとめま
   した。その詩、70篇ほどに写真をそえて展示しています。
   どうぞごゆっくりご覧ください。


     
   
     

このほど 堀祐吉・愛さんご夫妻から詩集展の案内状をいただきました。
堀明子さんのご両親です。明子さんについては、2年ほど前「いま
生命きらめいて」というコラムを書きました。長久保植物公園にある
明子さんの詩碑によせた一文です。

http://www.geocities.jp/sikino_iro/index.htm


堀明子さんは市立大道小学校を卒業して、横浜の名門フェリス中学校・
高校と進まれた。1988年高一の夏休み、高知で水難事故にあって
亡くなられる。私などが いくら想いを尽くしても到底及ばない、
とんでもなく優秀で、感性のゆたかな人だったでしょう。

私は自分の拙いコラムによる紛れを避けるために、詩を中心にして
明子さんを書いた。その詩に自ら曲もつけた少女だった。また明子
さんには小学生時代から草花の写生などに、いい絵が多く残っているし
その後も高校生時代までに美術部や生物部で活動されている。そして
なによりコラムでも触れたが、子供のときから登山やスキーなどを楽しむ
スポーツウーマンでもあった。私は二度ほど堀さんのお宅を訪ねたが、
明子さんの作品や写真が多く残っている。
ご両親は89年に、明子さんがのこされた210篇の詩を詩集「四季の色」
に編まれて出版された。この詩集は藤沢市の図書館にもあります。

http://www.hitohaku.jp/exhibits/temporary_exhibits.html

堀明子詩集展『四季の色』
「兵庫県立 人と自然の博物館」(三田市)で開かれます。(〜4/26まで)。
この詩集展を関西圏の人にも ぜひ見ていただきたいと思っています。
私も関西出身ですから、狭いながら友人たちのネットワークにも依頼
して、一人でも多く足を運んで戴こうと紹介しています。皆さまも
どうか詩集展が成功のうちに進むように応援してあげて下さい。
よろしくお願いします。

一月の中旬 湘南ふじさわウォーキング協会(FWA)の例会が我が家の
近くでありその下見の折、コースの長久保公園を歩きました。詩碑の
前で私が10人ほどのスタッフに、少し堀明子さんのことを話すと、
平野会長が自分も明子さんのことを知っている、といいました。
会長の娘さんも藤沢の小学校を卒業され、堀明子さんと同期で、
以降同じコースを進まれたとか。

思わぬことで堀明子さんの話を聞くことになりました。ご両親のご実家
が高知県で、高一の夏休みに高知へ遊びに行ってられた事。四万十川
で中学生の弟とカヌー遊びをしていて水難事故に遭われたことを聞き
ました。あれだけスポーツをされた人が・・とみんな惜しんだそうです。

その後、平野会長が明子さんの事をご存じだったなどと、堀祐吉さんに
メールで顛末をのべ、FWAの会報1月号を送りました。1月15日の
ウォーク本番で、私は400人のアンカーでした。長い列の最後部を
ゆっくり進んでいると、長久保公園の詩碑の前で堀さんが待っていて
下さった。4,50枚の絵葉書を手渡されました。絵葉書には明子さん
の詩に、彼女がよく詩に書いた庭の植物の写真がついていました。

     
   
     
 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅102
「らん展」
2009年2月21日
     
   
     

バレンタインの日 図書館で雑誌を見ているとワイフから電話が入った。
東京ドームの「らん展」の模様をテレビが伝えていて、つきあえという。

     
   
     

「世界らん展 日本大賞2009」
1991年が第1回だから今年が19回目。多分これまで2、3回つきあって
いるはずである。ドームのグランドをいっぱいに使っておびただしい数の
ランの花が飾られている。豪華な花々を育て上げた人々の愛情や情熱がムン
ムンと感じられる。ひとりで2時間ほど観賞したが見飽きることはなかった。

     
   
  かたらい  

ランの花って、ずいぶん種類が多く、花の形や大きさ、色・香などが様々な
上に名前が難しく覚えられないので困る。いくつか系統があって、分類して
覚えればよいのだろうが、当方にはとてもそんな余裕はない。

     
   
     

この展覧会ではランの花を6つの部門から審査している。
個別、フレグランス(香り)、ディスプレイ、フラワーデザイン、美術工芸、
寄せ植えなどの部門である。エントリー作品は国内海外から1500を超える。

     
   
  わたせせいぞうさん イラスト(部分)  

わたせせいぞうさん(漫画家・イラストレイター)が描いた蘭絵巻物語の
大きなパネルが、12か月の蘭とともに掲げられている。暖かくほのぼのと
したイラストは楽しく幸せな気分にしてくれる。

     
   
  リカステ  

蘭絵巻物語の文章もステキである。こんな文章を私も書き綴ってみたい。
たとえば2月はこんな風だ。(一部)

   バレンタインデーに、彼女は彼に蘭を贈った。
   トライアングルのピンク色の花びらをもったリカステだった。
   「花言葉は<ときめく幸せ>」・・

そして3月

   ホワイトデーに、彼は彼女に「春蘭」を贈った。
   お返しの春蘭の花言葉は<持続する愛>だった。

ついでながらこの日、入場者の全てにロッテのお嬢さんからチョコレートが
配られた。ことし頂いた唯一のチョコだった。うれしかった!

     
   
  やすらぎ  

会場のそれぞれの花は むろんとても美しいのだが、大きなディスプレーに
いくつか印象深いものがあった。

私が会場で一番ステキだと思ったのは、岐阜県立恵那農業高等学校の皆さんの
作品だ。多くの蘭の花々に優雅な古木や水を調和させた空間である。「やすらぎ」
というテーマで奨励賞を受賞した。こんなところに愛らしい妖精たちが、紛れ
込んでいても不思議ではないなと思った。むしろ いない方が不思議である。

ほかに楽しいディスプレーが幾つか有ったので載せておきます。

     
   
  二つの世界の物語 〜蘭〜  
     
   
  花よめ  
     
   
  白孔雀  
     
   
  オーキッド フェニックス  
 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅101
「米空母 ジョージ ワシントン」
2009年1月23日

このほど原子力空母"ジョージ ワシントン"が米海軍横須賀基地で公開
されたので観に行った。通常型空母"キティホーク"に代わって昨秋配備
されたものである。これまでイージス艦や護衛艦は観てきたが、空母は
初めてでその桁違いの大きさに驚いた。岸壁から見上げると船橋の高さは
ほとんどビルと変わらない。どうしてこんなものが水に浮いていられる
のかと あらためて思う。

     
   
     

ここで空母"ジョージ ワシントン (CVN73)"の基本データを紹介すると
 就 役:1992年7月4日
 建造費:約4,500億ドル(約4兆円)
 推 進:約18年間燃料補給不要の原子炉2基
 全 長:332.85m
 幅 :40.84m
 飛行甲板幅:76.8m
 高 さ:73.2m(船底からマストまで)
 速 力:30ノット(時速 55km)以上
 乗 員:3,200名(空母要員)2,480名(航空要員)
 兵 装:シースパロー(ミサイル)発射機3基 ほか
 艦載機数:約75機
 1日の浄水可能量:400,000ガロン(約2,000世帯への供給量)
 建造に使用した鋼材:60,000トン
 満載排水量:97,000トン

     
   
     

ハンガーデッキ(格納庫)からアッパーデッキへエレベーターで昇る。
右舷に接岸しているイージス艦を見下ろすことになって艦の大きさを再認識。
航空母艦とは移動式滑走路である。甲板はサッカー場がポンと入るほど広い
のだが、それでも100m程の距離で戦闘機がよく発着艦できるな、と驚く。
戦場に昼夜があり、海上にはシケもある。時速200-300kmで発着艦する
戦闘機のパイロットには恐怖は無いのだろうか。パイロットも甲板要員も
つねに訓練していて、日中は37秒に2機の発艦と、1機の着艦が同時に
行えるらしい。
この日艦載機はすべて厚木飛行場に移され、旧型戦闘機ホーネット1機が
展示されていた。

     
   
     

ジョージ ワシントンは米国以外の基地を母港とする唯一の米空母である。
92年の就役後世界に6度配備された。96年のボスニア・ヘルツェゴビナや
その後のイラク湾岸戦争にも派遣されている。こうした戦争のさなかでは
攻撃型空母として動くが、平時は米国の軍事的プレゼンスとして、同盟国と
共同演習したり、敵国に対しては その近海まで警告に出かけ戦争の抑止力に
効果をあげている。

ジョージ ワシントンは一日に800km 航行できる。経費は一日に1億円以上
かかるらしい。空母は単独で航行しない。イージス艦、巡洋艦、潜水艦などと
チームを組み、その旗艦として動く。これら艦船の費用のほかに空母艦載機の
戦闘機や偵察機の維持費、燃料費等がかかる。

     
   
     

歴史上 航空母艦を建造した国は5カ国だけらしい。アメリカ、旧ソ連、
イギリス、フランスそして旧日本。日本の造船技術って凄いのだ!
昨年暮れの朝日新聞によると、中国が2015年までに中型空母2隻の
建造に着手するという。5万〜6万トン級の原子力ではなく通常推進型で
ある。中国はこれまで空母はつくらないで、空母を攻撃する原子力潜水艦に
力をいれてきたが、史上6カ国目の空母建造である。

     
   
  アレスティング ワイヤー
戦闘機は着艦時に、フックを4本のワイヤーの
どれかにひっかけなければならない。
 


こうしてコラムを書いているときにも、わが家のある辻堂地区上空をF-18が
轟音を残して厚木飛行場へ飛び去る。家具などが振動するほどの凄まじい音だ。
空母艦載機が厚木飛行場を空母の甲板にみたてる訓練(タッチ&ゴー)だ。
戦闘機が後部のフックでワイヤーをつかめず着艦に失敗すると、瞬時に発艦
しなければならないからエンジンをフル回転で着艦するが その訓練をしている。

     
   
     

原子力空母 ジョージ ワシントンが、通常型空母キティホークと交代で
横須賀基地に配備されて、横須賀市民からは不安の声が上がり反対運動が
あった。わが国には非核三原則があり、原潜配備につづく問題でもあった。
その点私などは、なんだか物見遊山の見物でまことに不見識である。しかし
空母甲板上に立っていると時代の物音が少し聞こえてきたような気がした。

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅100
「明けまして おめでとうございます」
2009年1月1日

  謹 賀 新 年
  本年も昨年同様よろしくお願い申し上げます

     
   
  絵手紙「七福神」 丸田元宏さん  


すてきな七福神の絵を描いていただきました。どうして このように優しく
明るい絵が描けるのでしょう。この絵は 湘南ふじさわウォーキング協会
(FWA)会員の丸田元宏さんが描かれたものです。

2009年の船出 世界の人々が新しい年がどれほど厳しい航海になるのか、
固唾を呑んでみつめています。私も七福神に、仏様に そして全世界の神様に
人々の心に豊かな安らぎがもたらされることを祈ります。

ことしも私はウォーキング活動が中心の一年となりそうです。FWAの会員や
他の団体の皆さまと一緒に歩きます。
やはり歩くことは心身のリズムに活力を与え、健康の維持に有効かと思います。
また多くのウォーカーとの出会いがとても嬉しいのです。皆さんとの垣根が
低いので気楽にお話ができ、そのことは私の心をいつも軽やかにしてくれます。

私はいまFWAの月報「湘南ウォーカー」の編集を担当しています。
丸田さんの「七福神」は1月号の表紙(カラー刷り)を飾ったものでした。
FWAはウォーキングを通じて地域活動にもいろいろと参加しております。
近いうちにも皆さま方と共にウォークできることを楽しみにしています。

本年も皆さま方が 健康で幸多き年でありますようにお祈り申し上げます。

2009年 元旦

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅99
「からたち」
2008年11月17日

からたちの花が咲いたよ  
白い白い花が咲いたよ  

からたちも秋はみのるよ
まろいまろい金のたまだよ
                 
北原白秋「からたちの花」

     
   
     

この秋、からたちの実をはじめて見た。
バラ園のなかをそぞろ歩きしている時に不意にでくわしたものだから
驚きと喜びが合わさって、しばらくの間 呆然としていた。

からたちの花は、毎年長久保植物公園で見ている。4月になると小さな白い
5弁の花が咲く。そのころは黄緑色のトゲもまだ幼く1cmほどで、指の腹でも
しなる柔らかいものだ。だが私はこれまでからたちの実を見たことがない。

白秋の“まろいまろい金のたまだよ”は子供の頃からなじんでいる歌詞だが
白秋はどんな色を金色とうたったのだろう・・私にはこのことが長年の疑問で
頭から離れることはなかった。お家がからたちの垣根の人には他愛の無い
話だが。長久保公園へもよく散歩に出るが、未だにこの実を見ていない。

からたちの木は鉢物であったが、丈は人の背よりも高く2mは優にあった。
実は一つ。枝を水平に向けて、その先端に柚子ほどの実がつき 短銃の
ように突き出している。凛として力強い。金色などというものではない。
金色より、もっともっとみずみずしい生命の輝きに眼を奪われた。

     
   
     

ガーデンのご当主と立ち話をした。からたちは病気に強い木でね、と話して
同じ柑橘類のグレープフルーツの鉢植に誘ってくれた。青い実がいくつか
ぶら下がっている。からたちを台木にしたものらしいが、名前のように実が
ブドウ状にはなかなかつかないものだ、といわれていた。

     
   
     

このガーデンは「小松ガーデン」といい、山梨県石和温泉郷にある。
バラなどの種苗を扱っておられる。ガーデニングの雑誌や放送ではつとに
有名らしく、ワイフが一度行きたいと言うのでつきあった。いろいろな花や木の
植栽があって美しい展示場である。春バラの季節にもう一度訪ねたいと思った。

     
   
     

近くにきれいなハーブガーデンがあった。「ハーブ庭園 旅日記」というが
立体的なレイアウトで私などにも楽しめた。いくらか写真をつけておきます。

     
   
     
     
   
     
     
   
     
     
   
     
 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅98
「三島にて」
2008年10月31日

10月19日(日)
三島駅に近い市民会館で 「歌仙をたのしむ」会があった。連歌を詠む人は
大岡信 丸谷才一 岡野弘彦 小島ゆかりの4氏である。ファンとしては
これを見逃すと、生涯に悔いを残すので聞きに行った。

     
   
     

当初 私に誤解があって、4氏がステージで連句を詠むと思っていたのだが
そうではなく、すでに7月21日・31日と2回にわけ 東京の蕎麦屋
赤坂三平の二階で歌仙(36句)を巻いていて、それを私たちに配られ
4氏がそれぞれの句について語られたのである。

冒頭 大岡信さんの話があり、40年ほど前に安東次男(あんつぐ)さんを
師匠に丸谷才一さんらと連歌の会をはじめたこと。またその後の歴史を
のべられた。そしてよく連句会を開いている岡野弘彦さんと、今回の小島
ゆかりさんを紹介した。

     
   
     

写真は左から 小島ゆかり 丸谷才一 岡野弘彦 大岡信さんで、ステージの
上の36句の書は大岡信さんのものである。

「かなかなの巻」の表6句を挙げる。

   かなかなや夕日のころの遠見癖    ゆかり(小島ゆかり)
   ぱさりと落ちる広き桐の葉      信 (大岡信)
   水色の薄荷の匂ひ二日月       玩 亭(丸谷才一)
   痒がる犬の背中かきやる       乙 三(岡野弘彦)
   この夏は売れゆき悪き冷湿布     ゆかり
   膝痛めたる二軍のキャッチャー    信

ここは発句の小島ゆかりさんの話を聞くところだ。連句界名うての大御所
3先生を引き連れ、36句の旗印を高々と上げて進まねばならない。
それなりの風格もいる。 この句は力みもなく先生方に好評であった。
連句というのは難しい。一定の条件のもとで、前の句に付けるだけでなく、
次の句にも付けやすく詠わねばならないのだ。
小島ゆかりさんは今回初めて名前を知った人である。歌人として既に名を
なしている人なのだが、私のような詩歌とは無縁の者にはまだ良く知られて
いない。1956年愛知県生まれと紹介されているが、とてもそんなお歳に
見えない。若くてきれいな佳人。早大文学部卒業である。

今回私にとっては、連句の解説も聞きたいが、なによりも歌人たちのパーソ
ナリティに接したいのである。丸谷才一さんと岡野弘彦先生は80代半ば。
丸谷さんは終始 野太く大きな声で話され、すごくお元気なのに驚いた。
ユーモアの大家である。

岡野弘彦先生の話が面白かった。赤坂三平での句会で、丸谷さんは歳時記や
重たい広辞苑などを広げてられる。自分が電子辞書を引いているのを見て
それじゃダメだと丸谷さんに軽蔑されていたのだけれど・・のちに皇居で
皇后さんと歌のお話をしているとき、皇后さんは私の電子辞書を目ざとく
見つけられて、こんな良いものがあるのですかといわれ、女官に探して
おくように指示されていた、と話された。

また後半、名残の中程で次のような句が続いた。
   
   君の香の沁む袖ふりかへす      ゆかり
   ダージリン葉巻チーズの人なりき   玩 亭
   訴訟に負けて松で首吊る       乙 三

上の句について、岡野先生は7月に予言めいたことを詠みまして・・と、
ロス疑惑の三浦容疑者に触れられ、場内爆笑した。

歌仙(連句)は温泉宿で泊まりながら、20時間ほどかけて36句を詠む
のが普通だろう。名立たる歌人が1時間以上も苦悶、苦吟している様を
本で読むと本当に可笑しくなってくる。いずれにしろ、歌人や詩人たちの
間で湧き出す発想や、ことばの響きがとても楽しく、そんな本を楽しく
読んでいる。今回は僅かだがそうした臨場感を味わいえたのが嬉しかった。

最後になったが、三島市は大岡信さんの故郷である。氏のゆかりの地だから
このような歌仙の会が開かれた。来年には「大岡信ことば館」が三島駅北口に
開館するというからまた是非行きたいと思う。
また今回この会に、お花のライブもあって、福島光加さんの生け花に合わせて
岩谷泰行さんのピアノ演奏があり会場を盛り上げた。

     
   
     
 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅97
「平塚囲碁まつり」
2008年10月28日
     
   
     

10月12日(日)
「第13回 湘南ひらつか囲碁まつり」がJR平塚駅前の商店街で開かれた。
木谷實門下や、日本棋院の人気プロ棋士83人が、1000面打ち大会に
出場。囲碁教室やサイン会などが開かれ、囲碁ファンにはたまらなく
楽しい一日となった。

     
   
     
     
   
     

午後1時 デキシーランドジャズのメロディーに乗って看板棋士が入場。
開会式は大藏律子平塚市長の挨拶で始まった。

     
   
  大竹英雄九段  
     
   
  武宮正樹九段
(後向きは武宮陽光五段)
 
     
   
  小川誠子六段  
     
   
  青葉かおり四段  

1000面打ち大会は対局希望者1000人が2組に分かれて500人
づつ打った。したがって83人の棋士はそれぞれ6人くらいの相手を
巡回しながら打つ。対局希望者には女性や子供もけっこう多い。テレビ
などで見る人気棋士と対局できるので、おそらく全国から参加している
はずだ。写真の青葉かおり四段は稲門らしい。

     
   
  石田芳夫九段  
     
   
  マイケル レドモンド九段  

特設会場では石田芳夫、安倍吉輝、大竹英雄、武宮正樹九段らによる
囲碁教室が開かれた。またマイケル レドモンド九段の囲碁入門教室にも
多くの女性の笑顔があった。

     
   
  山住市郎さん  
     
   
  山本正人七段  

この大会に知人の山住市郎さんが参加した。山住さんは新宿稲門会の
人で囲碁五段。早大OBの代表選手である。この大会にも これまで
何度か参加している。
山住さんは日本棋院の山本正人七段と四子で対戦した。90分近い
一局だったが惜しくも敗れた。局後、七段の講評があった。
山住さんはS44理工OBだ。さすがに数理に明るく、囲碁も強いが
PCなども手の内である。囲碁は社会人時代に囲碁部で強くなったと
聞いたが、昨今はインターネットで外国の人とも対局しているらしい。

山住さんは人望が篤い。人脈の広がりは半端でなく、なによりワセダに
熱い人である。ワセダの応援部とも親しい。このコラムで言えば昨年の
「長崎から1250km」や「ワセダに向かって125kmウォーク」の
華やかな応援部のフィナーレは彼の肝いりで実現した。後者の125km
では、水戸街道に人がいなかったので彼が実行委員を引き受けた。

     
   
  小川誠子六段  

大竹英雄、武宮正樹九段らトッププロのサイン会が開かれた。小川誠子
六段はNHKの囲碁番組を長く担当されていたからファンも多い。
美形でやさしく、たおやかな姿は、とても勝負の世界の人と思えない。
俳優の山本圭夫人である。

     
   
  木谷實・星のプラザ  

平塚市が囲碁まつりを開催するわけは、昔ここに「木谷道場」があって
この道場から、高名な棋士が綺羅星の如く輩出したからである。平塚市は
「木谷道場」にちなみ、木谷實九段と、一門の功績を表して「木谷實・
星のプラザ」を中央公民館内に常設している。
木谷實(明治42年−昭和50年)は昭和13年に、「不敗の名人」と
いわれた本因坊秀哉の引退碁を、半年にわたり打ったことでも知られる。
この対局は川端康成の小説「名人」に克明に描かれ、棋譜もついている。
木谷門下の棋士は現在100人を越え、大竹英雄 武宮正樹 石田芳夫
加藤正夫 小林光一 趙治勲 本田幸子 小林誠子 梅沢由香里さんら
一門はいつも囲碁界をリードしてきた。

     
   
  囲碁サミット  
     
   
  大竹英雄さん 梅沢由香里さん
(左から)
 

この日の前日 10月11日に「第1回 囲碁サミット」が平塚市の呼び
かけで開かれた。「日本の囲碁を地域から」をテーマにシンポジウムが
あった。全国から平塚市をはじめ8市の市長さんらが出席し、各地での
囲碁普及活動や取組みについて報告された。小川誠子六段の司会で
大竹名誉棋聖や梅沢女流棋聖が助言者として参加した。

11日、12日と2日にわたって平塚囲碁祭を楽しんだ。近くにいながら
このイベントを見るのは今回が初めてだ。山住さんも話していたがゴルフ
でも野球でも、これほど多くのトッププロがアマチュアと市中で深く
交わる事は殆どない。熱心な囲碁ファンならネットや雑誌などで開催を
知っているのだろうが、私のような“往年”のファンはご近所なのに
ポスターを見ることも無い。もう少しPRの必要がないだろうか?
囲碁はぜったい面白い。子供や若人の知力、思考力の鍛錬にも断然いい!
年寄りのボケにもいいんだろうね・・。もっと普及して欲しいと思う。

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅96
「ウォーキング(8) 秋の湯坂道」
2008年9月29日
     
   
  精進池と駒ケ岳  

8月につづき9月にも箱根湯坂道を歩いた。緑濃い山中に、やさしい
姿の石仏や、きれいな草花が多く 秋の気配が漂う鎌倉古道であった。
箱根のハイキング 人気コースの風景を見てください。

     
   
     
     
   
     

湯坂道は鎌倉時代に拓かれた“東海道”である。火山性がれきで覆われた
道が数百年の歴史を経て、今は緑の草がむす なだらかな峠道になっている。
9月 さすがに秋のはしりで、萩や、はなすすきなど秋の草花が咲き乱れて
いる。(草花などをアルバムにしました。写真の一覧・スライドショウ)

http://album.nikon-image.com/nk/NK_AlbumPage.asp?un=48518&key=1272117&m=0

     
   
  二十五菩薩  

元箱根 精進池のあたりで、やさしい石仏・石塔の群を見た。
案内によると、この付近は当時、湯坂道では最も険しい峠で、厳しい気候と、
火山性の荒涼とした風景であったためか、「元さいの河原」とよばれて
いたらしい。
磨崖仏の周囲を赤とんぼが小さな群で飛んでいた。子供の頃、赤とんぼは
精霊となった故人の姿だと、聞いたような記憶がある。

     
   
  応長地蔵  

鷹巣山(834m)から浅間山を越えて、箱根湯本まで6kmの道は急な山坂も
ある。この急坂について、箱根町のガイドさんが、「十六夜日記」に出て
くる・・と何度か話してくれた。「十六夜日記」は高校時代の古典で読んだ
はずだが・・。ついでのことで、そのくだりを載せておく。


足柄山は道遠しとて、箱根路にかかるなりけり。
いと嶮(さが)しき山を下る。人の足もとどまりがたし。
湯坂といふなる。からうして越え果てたれど、麓に早川と
いふ河あり。まことに速し。  
    東路の 湯坂を越えて 見渡せば 塩木流るゝ 早川の水 
             「十六夜日記」 阿仏尼 

     
   
  羅漢像  

阿仏尼はその名の通り尼さんだが還俗したのではなかったか?この人は
実質的な冷泉家―歌道師範の家−の祖である。10年ほどまえに上野で
冷泉家至宝展があって、その折 尼の若いときの肖像画を見たことがある。
10代で皇女につかえたが、ある貴族との恋が壊れ仏門を叩く情熱的な人。
「十六夜日記」は、はるか後年 荘園の遺産問題がおきて、鎌倉へ訴状を
出すために下向した折の旅日記である。鎌倉英勝寺あたりに墓があった
はずである。

天下の景勝、箱根の秋はこれからがいい。山や湖をまた訪ねたいと思う。

     
   
  千条(ちすじ)の滝  
 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅95
「鳥羽美花さん」
2008年8月29日

朝の兆しが見え始めたころ、日本橋を渡った。そこは
まるで染料が拡散しているような蒼い色で浸されていた。
                      − 鳥羽美花 −

鳥羽美花さんにやっと逢えた。
早暁 深い青色をおびた「日本橋」が、うす紅で刷かれた空へ、緩やかに
飛翔しようとしている。橋頭の「獅子」や、聖獣「麒麟」をのせて、
ゆったりとした大きな羽ばたきである。橋上の高速道路は、すでに
取り払われた日本橋の未来だ。

「蒼茫」と題されたこの作品は六曲屏風である。(240cm×450cm)
鳥羽さんの色彩は鮮やかで美しい。原色が溶けているようで、透明感が
ある。昨秋に見たフェルメール「牛乳をそそぐ女」の青と黄色の補色
関係を思い出す。それにしても、このダイナミックな動きが「型染め」と
いう窮屈な制約から創られたものだとは、にわかに信じがたい。

     
   
     

「蒼茫」は日本橋の「日本橋三井タワー」2階に、7月から常設展示され
ている。三井タワーは地上39階。2005年に竣工した日本橋のランド
マークだ。正面から入ると広いアトリウムがあって、4階までがガラス壁
の明るい吹き抜けになっている。
エスカレーターで2階に上りきると、ゆったりとしたオフィスロビーで
正面最奥のガラス壁面に立つ「蒼茫」が目に飛び込んできた。居心地のいい
広いロビーで「蒼茫」は、多くの人々の談笑や笑顔のなかで、これからの
永い時を過ごすに違いない。

http://www.nihonbashi-tokyo.jp/machinami/mitsuitower/index.html

 
 

鳥羽美花さんは染色作家である。奈良時代より今に伝わる、わが国独自の
伝統技法「型染め」によって、ユニークでスケールの大きな絵画風景を
創作している。
作品の舞台はこれまでベトナムが多い。ベトナムは80年代にドイモイ
(刷新政策)と呼ぶ資本主義経済政策を打ち出し成功してきた。しかし
日本と同様に社会が急速に変化して、いま民族文化、民族遺産が失われ
つつある。鳥羽さんは90年代の半ばから十数年にわたり、ハノイや
ホーチミンなどベトナム全土を訪れた。そしてドイモイに成功したが、
急速な変化の中に失われていくベトナムの姿を「型染め」で残してきた。

鳥羽さんは「歴史を背景に風景そのものが国の形、民度を表す」という。
鳥羽さんが日本の風景を「型染め」で描いたのは「日本橋」が初めてだ。
高速道路が取り払われて、江戸の原点「日本橋」の空が明るく広がる日が
はやく戻るように祈りたい。

     
   
     

「型染め」は布や紙に染色する技法の一つで奈良時代に大陸から伝わった。
江戸時代には江戸小紋、京友禅、浴衣や風呂敷などで広く普及したようだ。
工程としては 図案、型紙彫刻、地張り、型置き、蒸し、水元(水洗い)
など20位ある。
和紙を何層か重ね(「蒼茫」の場合は古文書の和紙を9層も張り合わせて
いるらしい)柿渋を塗った厚紙に、彫刻刀で絵柄を切り取り、それを型に、
特製の糊で防染を施しながら色を置いていく。染めが多色であればある程
型紙が多くなっていく理屈だ。そして染めの発色に欠かせない、蒸しと
水洗いの工程がつづく。どの工程も一回限りの勝負で手直しがきかない
厳しいものだ。

     
   
     

鳥羽美花さんを知ったのは、この春である。「SANKEI EXPRESS」紙が
2週間ごとに鳥羽さんの作品を連載してくれている。同紙はタブロイド版
だが、毎回見開き(普通紙1頁大)で、鳥羽さんの作品をフルカラーで
挙げて記事がつく。
「型染め」についても同紙から多少学んだが、もともと当方に知識が無い
ので、なかなかイメージがつかみにくい。
「型染め」は江戸小紋などに見られるように、その基本は余計な模様を
省く“引き算”である。しかし鳥羽美花さんの「型染め」は技法通りに
一度空間をつくってから、その上に点を乗せていく“足し算”なので、
切りとられた場面に、独自で圧倒的な空気感を生み出すという。
上に述べたように、私は鳥羽さんの作品を見たのは今回が初めてだが
アートに比重をおいたクオリティ紙「SANKEI EXPRESS」のおかげで
美しい作品を数多く見てきた。是非まとまった展覧会を一度見てみたいと
思っている。

最後に、これまでの展覧会の模様などをリンクさせていただいて、皆様
にも、鳥羽さんの美しい作品の一部を見ていただきたいと思う。

http://www.furukawa-museum.or.jp/exhibit/2007/tobamika/index.html

http://www.pola.co.jp/company/home/back/2007/19r031.pdf#search='鳥羽美花'

          *鳥羽美花さん
           染色作家 日展会友 京都精華大学准教授

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅94
「藤沢素描(14) 藤沢宿 遊行の盆」
2008年8月1日

         暑中お見舞い申し上げます

この夏は連日 猛暑が続きます。皆様には変わりなくお元気にお過ごし
でしょうか。列島各地では郷土色豊かな夏祭りが始まりました。そして
お盆。いなかで懐かしいお国言葉にまじわれば、しばし暑さも忘れます。

     
   
     

藤沢 遊行寺でも7月25日・26日と「藤沢宿・遊行の盆」が催され
私も今回初めて、遊行寺の盆踊りを楽しみました。本堂前に特設舞台が
あり、篝火がたかれます。ウチワを片手に千人余りが納涼の盆。
舞台袖の夏木立の前では一遍上人像も合掌姿で軽快に踊ってられました。

     
   
     
   
  念仏踊り(上)と藤沢ばやし(下)  

明るく賑やかな唄やお囃子にのって 楽しい「藤沢ばやし」です。

わたしゃ江の島 浜風そだち ヨイヨイ ヨイトナ
潮のみちひで 恋を知る チョイナ

「藤沢宿・遊行の盆」は今年が第3回でした。秋田県羽後(うご)町の
「西馬音内盆踊り」と富山県八尾(やつお)町の「おわら風の盆」は
今回も参加してくれました。いずれも第1回から招待されています。

     
   
  西馬音内(にしもない)盆踊り  
     
   
  説明を聞く 江の島・海の女王と王子  

西馬音内盆踊りは豊年祈願や盆供養の伝統行事。賑やかなお囃子と
軽妙な甚句に、女性の静かな踊りがとてもいいバランスでした。
なかでも「彦三頭巾(ひこさずきん)」を被った亡者踊りにはびっくり。
西馬音内踊りは、国の重要無形文化財に指定されているそうです。

http://ugo.main.jp/

     
   
  越中おわら風の盆  
     
   
  おわらながし  

http://www.city.toyama.toyama.jp/yatsuo/nourin/owara/

三線と胡弓のせつない「おわら節」が流れて、深編み笠の踊り子が
風の精のように舞う。有名な風の盆、「おわら盆」は元禄時代から
続く風祭です。毎年9月1日から3日間続くそうですが、一度
八尾に行ってみたいですね。

「藤沢宿・遊行の盆」は藤沢の町を活性化しようと、3年前から始まった
イベント。時宗総本山遊行寺に伝わる時衆の「踊り念仏」が
盆踊りのルーツではないかといわれているので、私たち市民は
新しい盆踊りを起こし、全国的な盆踊りに発展させ、藤沢の
夏の風物詩にしたいと、期待しています。

     
   
     
   
     

遊行寺境内の盆踊りは26日に開催されましたが、25日夕方には
遊行通りの商店街を藤沢駅まで、流し踊りがありました。藤沢の美女が
ここに揃い踏み。総勢21団体、600名が 粋な浴衣姿で
「藤沢ばやし」を優雅に踊りつづけました。

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅93
「おりょう」
2008年7月17日

    甘い、可愛い音色である。ただ、ときどきするどい
    音色がまじる。そういう音色が、どこかおりょうと
    いう女に似ているようであった。

              司馬遼太郎 「竜馬がゆく」

     
   
     

横須賀をウォーキングしたとき、信楽寺(しんぎょうじ)という浄土宗の
お寺を訪れた。本堂の一角に坂本竜馬と、その妻おりょうの何とも浮世
離れした木像があった。満月の形に似た、径が一尺あまりの月琴もある。
清国より渡来の、この新しい楽器を おりょうは良く弾いたらしい。

それにしても、なぜ横須賀に竜馬とおりょうがいるのか。

     
   
  信楽寺門前  

おりょうは 医師楢崎将作の長女で名を龍(りょう)という。楢崎将作は
井伊直弼の安政の大獄で捕われ獄死した。坂本竜馬がそんなおりょうの
境遇を見かねて寺田屋の女将、お登勢(とせ)にあずけた。寺田屋は
天下に名が聞こえた伏見の船宿である。

「年は二十三、もと十分大家にて花生け、香を聞き、茶の湯などは致し
候へども、一向かしぎ奉公(炊事仕事)などはすることかなはず」
これは竜馬が国許の姉、乙女に送ったおりょうについての手紙の
一節である。

     
   
  おりょう  

慶応2(1866)年1月24日未明。坂本竜馬の寺田屋事件。
竜馬の尽力で薩長同盟がようやく締結した。竜馬は安堵して
寺田屋の二階で長州の三吉慎蔵と酒を飲んでいる。午前3時ごろに
数百人の幕吏が寺田屋を囲んだ。おりょうは竜馬と慎蔵の寝床を
とったあと階下の風呂に向かった。

「おりょうは、素裸になった。小柄だが、色が白く、肉付がしまって、
敏捷(びんしょう)な森の小動物をおもわせるような体をもっている」

司馬センセイの女体描写はこんなものだ。大体がいつもこうなのだ。
遠い記憶でエエカゲンだが、「梟の城」の小萩もよく似たものじゃ
なかったかな?こんな教科書のような文章では、妄想などつけようがない。
渡辺淳一のように、一晩のあれこれを10日間も新聞連載されるのも、
ちょっと閉口だが・・。

     
   
     

おりょうが窓から覗くと びっしりと人がいて、提灯が動いている。
おどろいて、風呂からとび出して二階の竜馬らの部屋へ知らせに行った。
そのとき素裸だったというのが、おりょう伝説だが、話としては
できすぎているか。いずれにしろ、京都の1月、午前3時の話だ。
宿屋の裏階段には明かりの一つもあったろうか。

     
   
  見かえり観音  

「竜馬がゆく」に、「菊の枕」という1章がある。(文春文庫 第5巻)。
寺田屋の女将、お登勢は菊がとても好きで、庭や軒下に嵯峨菊、伊勢菊、
肥後菊などいろいろな菊を育てゝいた。菊の季節には心がうきうきする。
ある日、おりょうがお登勢に、庭じゅうの菊をみんな欲しい、竜馬のために
花しべだけで菊の枕を作りたい、と言ってお登勢をあきれさせた。そして
その夕、庭のすべての菊が切取られた。
後にお登勢からこの話を聞いて竜馬の顔色が変わった。お登勢は竜馬の
怒っている顔をはじめて見て、おそろしさに身がふるえた。

「これは創作で事実ではない。こういう仕掛けはこの作品に山ほどある。」
「司馬遼太郎という人」(文春新書)の中で司馬遼太郎と30年の間、
編集者としてつきあった和田宏さんが書いている。
「おりょうが竜馬のために菊の枕を作ったなんて、ぼくのつくり話だぞ」
これは司馬遼太郎が和田さんに話した言葉である。
大衆演劇のある作家が「竜馬がゆく」と関係ない、竜馬が主人公の芝居を
書き、この菊の枕の話を使った。それについて司馬遼太郎は怒ったという。
司馬は自分の創作を断りなく使われたので怒ったのではなく、こんな事を
無神経に繰り返しているといつのまにか、それが史実として扱われるのを
恐れて怒ったのだ。司馬自身が史料調べをしていて、そのような
「史実」にしょっちゅう出くわしていた。一方で司馬遼太郎は独自の
歴史観が盗用されても怒ったことは殆んど無かったそうだ。
和田宏さんの「司馬遼太郎という人」は作家のナマの言葉をもとに構成
されていて、作家の人となりが身近に感じられる好著である。

     
   
     

境内に墓があり [ 贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓 ] と彫られている。
竜馬は慶応3(1867)年秋に、宿の近江屋で刺客に襲われ死亡する。33才。
小説「竜馬がゆく」でも、おりょうの消息はここで切れる。
竜馬の死後、おりょうに苦難の歳月がつづいた。竜馬の遺志によって、
おりょうは竜馬の土佐の実家でしばらく過ごしたようだが、竜馬の姉の
乙女と不仲であったか、土佐をはなれ京都、大阪から東京に出た。
西郷隆盛や勝海舟、竜馬の海援隊士らを訪ねたとか、諸説があるようだ。
明治8年 おりょうは現在の横須賀市で行商人の西村松兵衛と再婚した。
厳しい後半生であったようだ。明治39年66才で死去。信楽寺の住職らに
よって手厚く葬られた。そして京都霊山護国神社の竜馬の墓にも分骨
されているらしい。

横須賀をウォーキングしておりょうの事跡と出あうことなど予期せぬこと
だった。おりょうに特に関心もないし、私の知っているおりょうは昔読んだ
「竜馬がゆく」だけである。それでも墓前で掌を合わせると、時代の
うねりに巻き込まれ、放り出された女性を想うことになる。三十代半ばの
奔放な京女が、坂本竜馬の影を引きずって異郷横須賀の浜辺をゆく姿は
哀しいし、さらに憔悴した晩節を想うと、ほとんど能楽の世界のようだ。
暑いさなかだが久しぶりに古い本の頁を繰って、懐かしく一日を過した。

     
   
  信楽寺本堂  
 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅92
「小津和紙」
2008年7月1日

      和紙は人の心をやわらげ
      暮らしの場をなごませ
      そしてはるか飛鳥の時代より
      日本人が慈しんできた紙

       文字をしるし 物をつつみ
       風をさえぎり 光をやわらげ
      丈夫で長持ち そして優美・・                 
                −小津和紙−

     
   
     

久しぶりに日本橋を歩くと、街の雰囲気が大きく変わっている。街が
明るく すっきりして、華やぎが感じられるのだ。若者が増えたのか?
高層ビルが建ち、大小の通りがきれいに化粧されている。

日本橋本町(旧大伝馬町)あたりで[一六三五年創業 小津和紙]と
看板に描かれたオフィスとであった。ガラス越しに見ると店舗らしい。
我ながらちょっと気恥ずかしいな・・と思ったが勇を奮って内に入った。
4、5人の女性が小部屋で紙をすいておられた。

     
   
     

店内は明るく広々としている。紙と木であふれた素敵な世界だ。
気のせいか空気が清らかで、物音がほとんどしない。女性客の
楽しそうな笑い声が時折聞こえてくる。
大きな引出しが並んでいる。そっと手前に引いて見ると、美しい大きな
各地の和紙が何枚も重ねて納められている。紙で作られた小物や
毛筆などの展示も多い。老舗の紙の大問屋(小売部)とはこういう
ものかと息を詰めて思った。

     
   
     

有難いことに、2階に史料館がある。創業350年、江戸開府以来の
紙商の文書など、その歴史が創業の地で展示されている。
ほかに2階では小津文化教室があり、書や水彩画、絵手紙など
多くの講座が開かれている。

     
   
     

史料館に広重の「東都大伝馬街繁栄之図」が懸かっている。当時
大伝馬町は木綿問屋を中心に、江戸でも屈指の商業地であった。
間口の広い大店が軒を連ね、紺色の暖簾や幕を下げている風景は壮観だ。
通りを往く人々に見られる賑わいぶりがたのしい。

     
   
  小津家の紋 [ うろこ久 ]  

よく知られているように、徳川家康は荒涼とした江戸を開発するにあたり
諸国から商人や職人を多く集めて江戸に定住させ街を築いた。なかでも
日本橋は幕府にとり、とても大事な所で、三河、伊勢、近江商人らを
優先して住まわせたという。南北の町奉行もここに置いた。

小津家はもともと伊勢国、商都松阪の木綿商である。小津家といっても
数多く 松阪では小津党、小津50家と呼ばれたほどらしい。松阪の
木綿商らは伊勢商人と呼ばれた。なかでも三井高利は豪商で、越後屋と
して江戸で名を馳せていた。
紙商としての小津は1653(承応2)年、小津清左衛門長弘の江戸での
開業にさかのぼる。大変篤実な人であったらしい。以降、江戸の興隆と
産業や文化の発展に伴い 商いは順調に伸びた。
そして現在も小津産業株式会社は各地の和紙を取り扱うほか、メディカルや
エレクトロニクス向けに、業務用不織布の有力な卸商である。

     
   
  「本居宣長六十一歳自画自賛像」  

(本居宣長記念館より リンク許諾済)
http://www.norinagakinenkan.com/


紙商小津の一族に本居宣長がいる。宣長は算用に興味が無く、京都に
上って医者になった。72歳で没するまで医家を業としている。宣長は
若年より古典や漢籍に関心を寄せ、医業の傍ら 源氏物語や古事記など
王朝物や国学を研究した。生涯に詠んだ歌は一万首といわれる。のちに
「古事記伝」などを著わし以降の国学に大きく道を拓いた。

     
   
     

日本橋は気心の休まる、不思議なところだ。江戸期を通じて商業が盛ん
だったせいで、人々の気持を安らげる商都特有の雰囲気があるのだろうか。
越後屋、山本屋、白木屋・・今に至るも大店が暖簾を誇っている。
日本橋は五街道の大元で、水運も開かれ人や車馬、船の往来で賑わった。
日本橋のたもとには魚河岸があったし、日本橋人形町あたりには遊郭の
旧吉原があったはずだ。(いずれも明暦の大火で移転した)。
諸国から人や物産が集まる事によって磨かれた江戸文化の素晴らしさは
人々の心意気によって裏打ちされているから、いつまでもみずみずしさを
失わない。小津和紙店の清雅な空気のなかにいると、江戸の人々の
優しい心遣いが伝わって来ている様に思えた。

http://www.ozuwashi.net/

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅91
「クレマチスの丘」
2008年6月11日

「クレマチスの丘」に行ってきた。三島駅に近い丘陵にある。
梅雨の晴れ間の 日曜日であったが、来場者も多くなく
ゆっくりと楽しめた

     
   
     

クレマチスは北半球の温帯地域を中心に、250種ほどが自生
しているらしい。この庭園では200種2000株のクレマチスを
四季を通して植栽している。
2002年9月にオープンした。ワイフと初めてここを訪ねて5年ほど
たつらしいが、当時は庭園のあちこちで赤玉土を入れて土つくりを
していたそうだ。もっぱら随行のわが身には、まるで記憶が無いが・・。
せっかくだから幾らか写真を挙げる。

     
   
     
   
  アルバ・ラクジュリアンス
花弁に葉が潜っている?
 
     
   
     
   
  白万重(しろまんえ)  
     
   
  アリウム  

富士山麓につながる広々とした丘は、芝生が広く濃い森林に
囲まれている。吹き渡る風に乗って小鳥たちの鳴き声が鋭く響く。
目に優しい新緑や、花々の彩香のなかで大きく深呼吸してみる。
晴れていれば山河の絶景が見られそうだ。

     
   
  ホワイトガーデン  
     
   
     

庭園の一角にホワイトガーデンがある。白万重(しろまんえ)など白花の
クレマチスを中心に、デザインが気持ちよい。写真(上)の右側に
アーチが見えるが、天井の枝葉の中に小鳥の巣が有って雛が2羽いた。
黒い大きな目だ。アーチの下をガヤガヤと人が通るのでとてつもない
恐怖を感じていたのでは無かろうか?じっとして鳴き声一つたてなかった。
親鳥は巣に寄れそうもない。

     
   
  ポール  
     
   
  建物の外壁  
     
   
  クレマチスとバラ  

この庭園では飾りつけにも工夫を凝らしている。ホワイトガーデンも
そのひとつだが、ポールや建物の壁、石垣壁、外周フェンス、水路、
樹木の外周などにクレマチスのつるを絡ませて、上手に見せている。
同じツル性のクレマチスとバラのコラボなどは、もう少し時期が早く
5月下旬頃なら、もっと鮮やかなものを見られたかも知れない。

     
   
     
   
     

「クレマチスの丘」へクレマチスを好きな人々が訪れる。それでいい。
ところが意外なことを聞いた。
このクレマチスの庭園は、ヴァンジ彫刻庭園美術館の庭らしい。
だからチケットには美術館の名前も入っている。そして彫刻美術館の
中を通って庭園に出るのが順路になっている。館内にも庭園にも大きな
現代彫刻が、見る側に負担にならない程度に配置されていた。
美術館は庭園より半年ほど早く開館した。

ジュリアーノ・ヴァンジ(1931-)は現代イタリアを代表する彫刻家とか。
人間の苦悩の諸相を切り取っているようだが、いまの私は無関心を
装って素通りしている。
実は「クレマチスの丘」にはほかにも、ベルナール・ビュフェの美術館や
井上靖の文学館もあるのだ。(いずれも1973年開館)。ビュフェなどは
2000点の絵画、版画コレクションがあって、世界有数というから
ファンには見逃せないポイントだろう。

いずれにしろ空の広い自然空間で、花々とアートを楽しむことができ、
久しぶりに気持の良い一日を送ることができた。お近くに行かれる
事があれば、立ち寄ってみられてはいかがだろうか。

http://www.clematis-no-oka.co.jp/index2.html

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅90
「5月 花ごよみ」
2008年5月23日

この5月は例年になく花を見るチャンスが多かった。
ただ人の後ろを歩いていただけだが・・。

     
   
     

この季節のワイフの自慢はナニワイバラと黄、白のモッコウバラだ。
いずれも病気に強いバラなのか、毎年GW頃にしっかりと咲く。
ナニワイバラは花径が7、8cmあり、花びらは5枚でひとえだ。
ミツバチやクマバチがブンブンやって来る。白い花が大きくなると
風で花びらが一片づつ飛び散ってご近所の玄関先まで転がっていく。
「今日は4回も掃いてきた!」そんなワイフのグチを今年も何度か聞いた。

     
   
     

新林公園は藤沢市の中心街にあるが、里山の雰囲気があって
気持ちの良い公園だ。背後には自然豊かな尾根や谷戸がある。
この公園の藤の花が評判なのだが、私は今回初めて見た。

     
   
     
   
     

GWに「10カ国大使夫人のガーデニング」が虎ノ門のホテルオークラで
開かれた。今回は9回目だがいつもニュースで見るだけだ。
ワイフが一度見たいというのでつきあった。
参加国はタイ、モザンビーク、スロヴァキア、カナダ、ポルトガル、
ベルギー、ペルー、ロシア、中国、オマーンの10カ国。
オークラの「平安の間」が世界各地からの花々で埋めつくされた。各国
大使夫人が趣向したガーデニング広場は、色とりどりの花が溢れて
その美しさと香りを十分に堪能した。なかでも中国の牡丹の豪華な
艶やかさを見ると、中国人の牡丹への想いが、古来大きなものであった
ことが容易に理解できた。またロシアのベージュ色のバラも、
派手なものではないが、深い気品に嘆声があがっていた。

     
   
     

オークラのあと白山の小石川植物園に寄った。ここは300年ほど前に
徳川幕府が設けた小石川御薬園で、併設された小石川療養所は「赤ひげ」の
舞台としてよく知られている。100年ほど前に東京大学の付属植物園と
なった。私にはかねて一度訪ねたいと念願していた所である。
300年の歴史、50000坪の敷地、4000種の植栽には
江戸・東京の凄さを想った。
入口で 今はなにが見頃ですかと、院生に訊くと「ハンカチの木かな・・」と
返事があった。桜の季節にはぜひ再訪したい花見スポットだ。

     
   
     

「一木会」の5月ウォーキングは、珍しく東京を歩いた。九段坂下から、
北の丸公園を経由して皇居東御苑へ抜けた。北の丸公園は旧近衛連隊の
建物が多くあった所だが、現在はそれらを撤去して皇居の森につながる
森林公園となっている。唯一レンガ造りの旧近衛連隊司令部の瀟洒な
建築だけが残っていて、博物館として利用されているようだ。初夏の
北の丸公園は、新緑に風が通りぬけてとても気持よかった。
皇居東御苑ではウツギやサンショウバラが美しく、鋭い芳香に驚いた。
見慣れない低木があった。紅い金平糖のような実(実際は蕾!)を沢山
つけている植物で、カルミア(アメリカしゃくなげ)というらしい。
1つだけ花が咲いていた。可愛い花である。
http://www.kunaicho.go.jp/hanadayori/syasin.html

     
   
     

中旬に「湘南ふじさわウォーキング協会」の例会に参加し、大船の県立
フラワーセンターを訪ねた。好天気でバラ園に人だかりがあった。
温室では、ひすいかずらの開花が見られてラッキーだった。勾玉のような
青味がかった花が垂直に垂れている。フィリッピンの原産らしい。
http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/05/1666/

余談だが「湘南ふじさわウォーキング協会」の会報「湘南ウォーカー」を
6月号(101号)から編集することになった。GWの間、この作業をして
15日に1000部を印刷した。
私はパソコンも編集も全くわからない。しかし有難いことに、このコラムの
市民記者には多くのパソコンの上手がいて、藤沢市の施設で講師などを
している。「このレベルでよく引き受けたね!」と呆れられながらも
皆さんから毎日応援をうけてようやく仕上がった。公共施設にも、おいて
いるので気づいたら読んでください。ついでにHPも紹介しておきます。
http://shonan-fujisawa.jp/

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅89
「坂の上の雲」
2008年4月1日
     
   
     

        のぼってゆく坂の上の青い天に
   もし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば
     それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。                
                  司馬遼太郎 「坂の上の雲」

     
   
     

聖徳寺の角を曲がると、200mほど上り坂がつづく。坂の中ほどで
左を見ると、横須賀港の沖に東京湾が青く霞んでいる。
坂の上に一朶の白い雲が輝いていないかと、この春も海軍の空気が
ただよう花処を訪ねた。

     
   
     

「ことしは早く咲きましたね」 
「去年はこの時期ほとんど咲いていませんでしたが・・」
黒い制服に白いキャップが粋な女性自衛官が迎えてくれた。

     
   
     

案内の冊子によると、東京湾を一望の下に見晴らす、この海上自衛隊の
田戸台分庁舎は横須賀鎮守府司令長官の官舎として、大正2年に建設
された。ここに昭和20年の終戦まで34代の歴代長官が居住した。
後に首相になる岡田啓介や米内光政、駐米大使の野村吉三郎らの
将官時代の名前も見える。第二次大戦後は米国に接収され、昭和39年
まで9人の在日米海軍司令官が居住した。

     
   
     

田戸台分庁舎は毎年桜の季節に一般開放される。
煉瓦タイルの壁に、銅青を帯びた亜鉛葺き屋根をもつ建物が、さくら色に
染まっている。激動の時代に、匂い立つ花々のなかで海を眺めながら
思考し休息する海軍将官らの姿を想像してみる。
この建物は和洋折衷というより、平屋建ての洋館と二階建ての和風館の
接続住宅である。そして接合部には絵本に見るようなトンガリ
屋根があり、ベイウインドウ(出窓)がついている。

     
   
     

ダイニングルームに東郷平八郎元帥の額「海気集」が懸かっている。
この建物は日露戦争の海戦から7、8年後に建てられたものだ。
洋館部分にある執務室、リビングルーム、ダイニングルームは
いずれも装飾性が少なく機能的である。

     
   
     

瀟洒な建物にふさわしい和風庭園は、いま多くの桜が咲いて美しい。
ほかに梅やモミジ、サルスベリなど季節が配慮された庭だ。庭の奥に
見晴台があり、横須賀の街並みや海を見下ろすことができる。

     
   
     

帰途に海自のイージス艦が見えた。機密の漏洩や漁船との衝突事故
など、海自最先端のイージス艦に考えられない不祥事が続いている。
残念なことだが最近の日本は安心・安全の面で心細い国になっている。
せめて国の防衛を担う自衛隊位は規律がしっかり守られて、国民に
不安を抱かせないような存在であってほしいと願っている。

   田戸台分庁舎の一般開放は4月6日まで
   連絡先:海上自衛隊横須賀地方総監部
       tel: 046-822-3500

 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅88
「わたしいまめまいしたわ」
2008年3月11日

"わたしいまめまいしたわ”
どこかの美術館が こんなタイトルで展覧会をやってるよ。

     
   
  ヤナギ (長久保植物公園です)  

横断歩道を歩いていると、後ろでクラクションが鋭く鳴った。振り返って
そして顔を戻して前に歩きだすと、横断歩道の太い白線が左から右へ
緩やかに回っている。めまい!・・立ちすくんだ。この時は無事だった。

かかりつけの耳鼻科に駆け込んだ。
「どぅったの?耳鳴りが前よりひどくなった?・・それとも花粉かい?」
「メマイだよ・・センセ メマイも診るんでしょ?」
センモン センモンよといいながら、顔のあちこちの部位を撫で回す。
そして小気味良く明快に言い放った。「カレイだな カレイ!」

     
   
  マンサク
どの花よりも先にマズサクの意 いま満開です
 

歳をとる・・てぇのはきついね。代謝が鈍るし、調節が利かないのだ!
内科クリニックともすっかり顔なじみだね。いつもニコニコ迎えてくれる。
「少しはオナカ引込んだ?カレイでだめか・・頭の中はとんと伸びないで
オナカばっかりでてくるんだものな・・はいメタボ処方!」

     
   
  オウバイ (迎春花)
枝が地を這う 梅のような可愛い花
 

耳鼻科とメタボだけじゃないよ。歯科と膝痛。それに心臓だって投薬中
なんだから!こちらとすれば、トシだから仕方ないっか・・と思っても
それをストレートに認めたくないものだから、心配顔して病院へ行って
いるのにさ・・
「カレイだから仕方ないね、おだいじに」 カレイの診察でカネトルナ!

     
   
  サンシュユ
これからが見頃です
 

しかしやはりボケや老化は確実に進行している。忘れ物、落し物など
毎日のこと。去年隠したヘソクリの場所も 未だに思い出せないんだ。
昨夜は真夜中12時過ぎ就寝時に、先に寝ていたワイフをゆり起こした。
「バルサンないかな?・・すこし頭痛がする」
「・・バルサン?パブロンでしょ」寝入りばなの要求に不機嫌な返事だ。
たしかに・・バルサンは家を燻す薬品だったな。
いま私はカレイ本通りを勇往邁進していて、いささかの揺るぎもない。

     
   
  ミツマタ
紙の原料ですね
 

先週 八松小学校の横を歩いていると全校集会をしていた。
「・・私たちは四月から中学生になります。楽しい思い出がいっぱいで
皆さんや学校のことをいつまでも忘れません。 6年○組 ○○○○」
ウン、たしかにオレにもあんな頃があったな・・。
もう一度中学生からやれと言われたら・・?ちょっとメンドウだな。

     
   
  カリン
咳止め!カクテルで頂いた記憶がある
 

人の一生を一日に見立てたとき、年齢を3で割ると時刻がわかる・・
そんな話を聞いたことがある。中学1年生を12歳とすると午前4時だ。
還暦の60歳は20時だから夜の8時。私なんか大晦日なら除夜の鐘が
聞こえてきそうだ。しかしこれでは72歳が上限だから、日本人の平均
寿命に合わないということで4で割るという。そうすると上限が96歳に
延び、60歳の還暦も午後の3時になって、まだまだ遊び盛りのガキだ。
いやァ メデタイ メデタイ!

     
   
  トサミズキ
ヒュウガミズキも傍にある 好きな花です
 

私は大島信三さんのブログのファンだ。大島さんは産経新聞編集委員で
前の「正論」編集長だ。

http://oshimas.iza.ne.jp/

大島さんが東京郊外のパブに行き、化粧室に入ると「長寿の心得」と
いう張り紙があった。パブのママに訊いても、作者はわからなかった
らしいが、面白いのでブログに掲げている。

     「長寿の心得 ー 人生は山坂多い旅の道」

還暦・・60歳でお迎えの来た時は、只今、留守といえ
古稀・・70歳でお迎えの来た時は、まだまだ早いといえ
喜寿・・77歳でお迎えの来た時は、せくな老楽、これからといえ
傘寿・・80歳でお迎えの来た時は、なんのまだまだ役に立つといえ
米寿・・88歳でお迎えの来た時は、もう少しお米を食べてからといえ
卒寿・・90歳でお迎えの来た時は、そう急がずともよいとえ
白寿・・99歳で  〃  〃 頃を見てこちらからボツボツ行くといえ
  気は長く 心は軽く 腹立てず 口をつつしめば 命ながらえる

     
   
  コブシ
モクレンじゃないよね
 

啓蟄もすぎたから、蟻やトカゲ、蛙などが冬眠から覚めて活動を始める。
この芽吹きどき・・長久保植物公園は日々刻々春の彩りが変わる。
冬木立のなかで、柳やカリンの堅い新芽が太陽の光を反射していた。
鶯の笹鳴きが聞こえぬかと散歩している。花風が吹くのもまもなくだ。

     
   
  ユズリハ
新芽が出るとき古い葉を落とす
新芽が出るにはもう少しかかる
 
 
市民記者 No.105 湘太
 
■コラム:であい旅87
「瀬戸屋敷 ひなまつり」
2008年2月22日

足柄平野の開成町を歩いていると、京都大原の里にいるかと錯覚した。
遠く近くの藍色の山々に囲まれたこの季節の盆地は、冬枯れの田畑に
見るべき色も無いが、冬空がカーンと抜けているところなど三千院近くの
雰囲気と良く似ている。

     
   
   

開成町のあしがり郷「瀬戸屋敷」は、豊かな屋敷林や田畑、きれいな
清流に囲まれて、画にあるような懐かしい農村風景を残している。
梅のほのかな香も春がもう間近であると告げている。
お屋敷では毎年この時期におひなさんが飾られているようだ。NHKが
「ひなまつり」の模様を放映して、ワイフが喧しいので出かけることに
なった。

     
   
   

瀬戸屋敷のご当主は江戸時代から代々名主を勤めてこられたらしい。
主屋は宝永4(1707)年、富士山噴火後の18世紀前半に建てられた
とか。茅葺の屋根がいかにもやさしく、人々の心が和む建物である。
敷地は約1800坪。主屋の建築面積は80坪余り。これに大きな土蔵が
ついている。土蔵は明治20年代のもので、県下でも有数の規模らしい。

     
   
   

屋敷は5、6年前に所有者の厚意で開成町に寄贈された。その後
開成町は建物を歴史文化遺産として、保全と活用を図るため修復した。
現在は来訪者と地域住民の交流を深める観光施設として、また地域
住民の文化活動の場として広く利用されているそうだ。

     
   
  瀬戸家のおひなさま  

数多くの人形が美しく、まぶしい。ひな壇に囲まれていると緋色に酔い
そうだ。瀬戸家の段雛は江戸時代のもの。最近の人形に比べると
やや古色を帯びているが、さすがに古民家に飾られると ふさわしい
落ち着きが感じられる。小田原藩主大久保家の家紋がついている。
ひなまつりには幼女に着物を貸し出して撮影するサービスもあるらしい。

     
   
   

ボランティアの奥さんが、人形を親切に説明してくれた。女児の幸せな
成長を願って近郷の婦人らが作った、美しいつり雛の話も聞いた。
農閑期だから時間も有るのだろう。土間やお勝手では甘酒やおでんで
接待に忙しい。私たちは黒光りした板敷きの茶の間でご馳走になった。

     
   
   

私たち地域住民以外でも、この主屋でお茶会や食事会ができるとか。
無料で貸し出す開成町の取組みを思う。昨今は多くのウォーカーも
休憩に寄っているようだ。

     
   
   

大きな水車がゆったりと回っている。塀の内側に水路があり、小川が
勢いよく流れている。水車小屋に石臼があって、希望すれば誰でも
粉をひくことができる。

     
   
   

これほど大きな土蔵は見たことがない。建築当初の利用法は不明だが
当初は平屋だった。関東大震災で火災にあい、その後2階建てとした。
昭和初期は米蔵、文庫蔵として用いたそうだ。
現在はいろいろな催事に利用できるように改修されている。私達が
訪れた時は、墨絵、ちぎり絵、チョーク画などの展示があった。

開成町はアジサイの町としても良く知られる。私もウォーキングなどで
3、4度目の訪問だが瀬戸屋敷は今回が初めてだった。晴れ上がれば
大きな富士山も見られる。花見、月見、蛍などの季節に再訪して
里の人々と話をしたい。きっと沢山の楽しい話が聞けることだろう。

http://www.town.kaisei.kanagawa.jp/kankou/index.html

 
 

湘太


藤沢在住30年、2005年の定年から「アカ落とし」に精を出す日々とか。司馬遼太郎を片手に大和路を歩き、修二会では念願の老師との対話を実現、その行動力には脱帽。日々、好奇心のアンテナを張り、出会いを求め歩く…「人に、風に、ことばにであう旅にでる 出逢いが別れであるとしても・・」



 
藤沢市市民記者一周年記念誌「ふじ記第1号」
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「市民記者養成講座」は慶應義塾大学金子郁容研究室(文部科学省/現代GPプロジェクト)と藤沢市の共同で開催され、ISIS編集学校(編集工学研究所)のカリキュラムの一部が利用されています。また、この市民記者のページは編集工学研究所のサポートで運用されています。