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電縁都市ふじさわ市民記者養成講座を修了したみなさんです。
 
市民記者 No.104 三丁目の夕日
 
■コラム:古き良き時代を訪ねて - 14
「海からの贈り物」
2009年2月24日

砂浜を歩いていると、人々が何かを探している姿を見かけた。ここは、葉山御用邸裏の海岸である。みんなビニール袋を手にしているが、中に何か入っている。地元の方と思しき一人の女性に何を取っているのか聞いてみると、ワカメを取っているという。確かに砂浜には海藻が打ち上げられているが、その中からワカメを探し出しているのだ。多くはカジメと思われるが、ワカメの見つけ方は、真ん中に茎があるものを探せば良いと教えてもらう。ただ、なかなか分かりづらい。それを見かねてか、先ほどの女性に一株いただいた。

     
   
   「ワカメを探している」  
     
   
   「ワカメ(左)とカジメ(右)」  

私の母方の祖父が淡路島出身で、子供の頃、何度か遊びに行った事があるが、朝親類に連れられて砂浜へ、テングサを取りに行ったことを思い出した。テングサはところてんの原料である。また、みんな泳ぎが達者で、泳ぎがあまり上手くない私は、防波堤から落とされてあわてたこともあった。昔は、ひざぐらいの深さで魚をモリで突けるくらいきれいな海だったが、今はどうなっているのだろう。きれいなまま残ってくれていればいいが。

 海を眺めていると、きらきら光る海の上を漁船が走っていく。遠くに江ノ島の姿も見える。防波堤の横には、いかにもカニがいそうな岩場もあった。もうすぐ暖かくなり、海にも人が増えてくるだろう。そんな人影もまばらな海から、ワカメを手に帰る心が暖かかった。

     
   
  「漁船が走る」  
     
   
  「遠くに江ノ島が」  
     
   
  「岩場にカニは見つからず」  
 
市民記者 No.104 三丁目の夕日
 
■コラム:古き良き時代を訪ねて - 13
「過ぎ行く夏」
2008年9月2日

 今年の夏も暑かった。急なにわか雨も多く、東南アジアの国に行ったような感じがあった。それでも何か気分をわくわくさせてくれた夏。そんな夏も後ろ姿を見せている。

 子どもの頃、夏休みに入ると、この長い休みに何をしようかと考えるのがとても楽しみだった。
 夏休みと言えば、やはり海水浴が思い出される。父の会社の施設があった関係で、海水浴には湯河原へ度々行った。父は砂でおだんごを作るのが上手で、濡れた砂で固めた上に乾いた砂をかけ、とても硬いおだんごを作り、子どもの私を喜ばせてくれたものである。

     
   
  「人気のなくなった海」  

 今はほとんど見られない麦わら帽子をかぶり、網とカゴを持って蝉取りに行った。アブラゼミやツクツクボウシはよく捕れたものの、クマゼミやミンミンゼミにはほとんどお目にかからなかった。大人になってからは、夕方に聞くヒグラシの鳴き声に風情を感じる。

     
   
  「アブラゼミ」  

 眠い目をこすりながら行ったラジオ体操、進級するのを楽しみ通った水泳教室、夏休みの最後にあわててやった宿題・・・。 
 先日、吉田拓郎さんの「夏休み」という歌を久しぶりに聞き、歌詞の一節に懐かしさを見つけた。

 「 絵日記つけてた 夏休み  花火を買ってた 夏休み
   指折り待ってた 夏休み
   スイカを食べてた 夏休み  水まきしたっけ 夏休み
   ひまわり 夕立 蝉の声 」

     
   
  「ひまわり」  
     
   
  「公園」  
 
市民記者 No.104 三丁目の夕日
 
■コラム:古き良き時代を訪ねて - 12
「江ノ島に一足早い夏が来た」
2008年6月4日

今日は、一足早い夏を感じに、江ノ島で開催された「江ノ島 ALOHA Sunset」に行ってきた。昨日の雨が嘘のような晴天で日差しも強く、とても気持ちが良い。その気になってアロハに身を包み、いざ目指す江ノ島展望台下の広場へ。健康のためエスカーを使わず登ってきたため、のどが渇き早速ビールを買い込んだ。まわりを見回すと、この雰囲気に合ったファッションが目に付き、まるでハワイに来たようだ。ステージではフラダンスと演奏が繰り広げられた。

最近フラダンスが巷で人気のようだが、ステージにはいろいろなサークルが出演し、みごとなダンスを繰り広げてくれたが、その衣装の鮮やかさはすばらしいの一言であった。

     
   
     
   
     
   
     
   
 

 

 

フラダンスに魅了され、その歴史を調べてみると、かつて文字を持たなかった古代ハワイの人々が、神話や伝統をフラを踊ることで、子孫に伝えたということである。フラダンスの手の動きやステップにそれぞれ意味があり、古代ハワイの人々の言葉や心を表現した踊りだということが分かった。

日本の中で夏が一番似合う場所湘南、その中でも中心的なスポットの江ノ島で一足早い夏が満喫できた。この街に住んでいることを改めて幸せに感じた一日だった。

 
市民記者 No.104 三丁目の夕日
 
■コラム:古き良き時代を訪ねて - 11
「新選組と島原」
2007年09月01日

 「京都の夏は暑い」と誰もが口にする京都へ、その暑さを体験してみようと、怖いもの見たさも手伝い行ってきた。本当に暑かった。平日はクーラーの効いている事務所にいる私は、思いのほか暑さに弱かった。グロッキーになった私を何度となく助けてくれたのは、冷たいビールであった。私にとって、京都と言えばなんと言っても新選組である。新選組の屯所跡がある壬生には以前も行った事があるが、屯所跡をゆっくり見た事はなく、今回、案内の方にじっくり解説をしてもらいながら見学することが出来た。

新選組発足
 文久2年(1862年)に江戸幕府は将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集し、翌年、集まった200名余りの浪士達は将軍上洛に先がけ、浪士組として京に向かい、壬生に逗留した。京に到着後、清河八郎の天皇配下の兵力にしようとする画策が露見し、浪士組は江戸に戻ることになったが、近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派8名と、芹沢鴨を中心とする水戸派5名は、将軍警護のため京都に残留した。この13名は、たまたま屯所となる八木邸を宿所としていた。その後、京都守護職・松平容保より、主に尊皇攘夷の浪士達による不逞行為の取り締まりと市中警護を任され、「新選組」が誕生した。
 当時は、八木邸の座敷に寝転がっても二条城が見えたそうであり、その近さから、この場所が宿所として選ばれたようである。八木邸には2階もあるが、窓がない間取りであり、襲撃を受けた際に脱出ができないことから、新選組は2階を使用しなかったそうである。

     
   
 

「屯所跡(八木邸)」

 
     
   
 

「宿所であった前川邸」

 

芹沢鴨暗殺
 芹沢鴨を始めとする水戸派は、隊規を守らず乱暴狼藉を働いていたが、文久3年(1863年)9月13日、近藤らは水戸派の新見錦に乱暴狼藉の罪を問い詰めて切腹させた。翌14日、会津藩は近藤らに芹沢の処置を密命する。腕の立つ芹沢の暗殺は容易でない事から、酔ったところを襲おうと、16日、新選組は島原の角屋で芸妓総揚の大宴会を開いた。宴会が終わり、芹沢は平山五郎、平間重助、土方歳三らと角屋を出て壬生の八木家へ戻り、再度宴会を催した。その席に芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里が待っており、すっかり泥酔した芹沢たちは宴席が終ると女たちと寝た。
 大雨が降る深夜、突然、数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢に切りつけた。驚いた芹沢は隣室に飛び込むが、入口にあった文机につまずき、転んだところを刺客たちによって殺された。刺客は、土方、沖田、山南、原田であったと言われている。
 八木邸には、芹沢がつまずいた文机と、暗殺時に鴨居につけられ刀傷が今も残されているが、実際の現場を目の当たりにすると、時間の経過を忘れさせてしまうような、不思議な感覚にとらわれてしまった。

島原という街
 島原は、壬生から歩いて10分程の、かつては花街として栄えた場所である。以前は置屋が約50軒、揚屋が約20軒あったが、今も昔の名残を残しているのは大門、置屋の輪違屋、揚屋の角屋である。その場で、目を瞑ってみると、昔の喧騒が聞こえてくるようであった。芹沢が最後に遊んだ角屋は年に2回開放しているそうだが、今の時期は残念ながら中を見ることができなかった。
 新選組の隊士達は、毎日の緊張感や戦いの後の興奮を静めるために、仲間と連れ立って、この街を訪れていたことであろう。

     
   
 

「島原大門」

 
     
   
 

「輪違屋」

 
     
   
 

「角屋」

 
 
市民記者 No.104 三丁目の夕日
 
■コラム:古き良き時代を訪ねて - 10
「お祭りと夜店」
2007年07月17日

 私は子供の頃、よく親戚の家に招かれてお祭りに行った。お小遣いをもらい、それを握りしめて、祭囃子の聞こえる夜店に走ったものである。子供には、最初から興味があるものをどんどん買って行き、最後の方はお金を使い切ってしまっていて欲しい物があっても買えなくなってしまうパターンと、一通り見る中で欲しい物を探しておき、最後に買うパターンである。私はどちらかという後者の子供であった。世田谷のある神社のお祭りでは、夜になると境内で漫才や手品もやっていた。今では足が遠のき、最近ではそのような余興が行われているかどうか。

 私がお祭りで良く立ち寄ったのは、型抜き、輪投げ、あんず飴であった。型抜きはたしか1回100円で、夜店のおじさんが持っている箱の中から、紙に包まれた四角い板状のもの選ぶと、中にはピンクや黄色といったお菓子のようなものが入っている。この表面には傘や独楽や動物の形が書かれていて、型の周りがやや窪んでいる。これをおじさんに渡すと、外側のいらない部分を手で割ってくれて、ここからが奮闘の始まりである。虫ピンで慎重に外枠を削っていくのだが、結構硬くて難しい。さらに、必ず傘の柄や独楽の心棒といった細い部分があり、ここで割れてしまうことが多い。みごと型を抜けると、その型の難易度によって、返金がある仕組みになっていた。
 それから、輪投げは台の上におもちゃやウイスキーのミニボトルやらが載っていて、1回に輪を5つくらいもらい、欲しい物をねらう。上の商品が倒れてしまったり、入ったと思ったら下の台に引っかかったりと、なかなか取れなかった。
 あんず飴は、パチンコ台のようなものがあり、それで当たりを出すか、店のおじさんとじゃんけんをして勝てば、複数のあんずやスモモが乗った飴をもらえた。水飴を2本の箸でずっと混ぜ合わせ、白くて柔らかくなった飴を頬張ったものである。

 今でも、お祭りになると、子供たちはお小遣いを手に、夜店を楽しんでいる。時代は変わっても、昔と変わらない子供たちの姿を見るにつけ、何かほっとさせられる。

     
   
 

「射的 花札が描かれたライターがあった」

 
     
   
 

 「お面 たしかウルトラマンがあったかな」

 
     
   
 

「はっかパイプ 美味しかったけど
すぐ中身がなくなってしまった」

 
     
   
 

「お化け屋敷 口上はあいかわらず上手である」

 
     
   
 

「金魚すくい 帰りよく水をこぼした」

 
     
   
 

「風船すくい 割と上手だった」

 
     
   
 

「似顔絵 なかなか渋かった」

 
 
市民記者 No.104 三丁目の夕日
 
■コラム:古き良き時代を訪ねて - 9
「義経伝説」
2007年05月28日

 ここ湘南には、源義経にまつわる伝説が残されている場所があり、今回はその足跡を辿ってみる事にした。

 義経は兄頼朝の命を受け、一の谷、屋島、壇の浦と次々と平家を破り、元暦二年(1185)に鎌倉へ戻ってきたが、ねたみ心の強い頼朝の怒りに触れ、鎌倉へ入ることができず、腰越の満福寺に逗留した。

     
   
 

「満福寺」

 

 なんとか頼朝の怒りを解こうと書かれた嘆願書が有名な「腰越状」である。腰越状には、亡き父を思い、頼朝へ服従する気持ちが切々と述べられている。

     
   
 

 「腰越状」

 

 嘆願書は頼朝の信望が厚かった大江広元に託されたが、その思いも通じず、義経は京に戻り、その後各地を転々とし、最後に少年時代を過ごした奥羽の平泉に戻った。平泉では藤原秀衡のところに身を寄せるが、秀衡の死後、その子の泰衡に攻撃されとうとう自害した。その首は首実検のため鎌倉に持ち帰られたが、海に捨てられ、境川を遡り白旗神社近くに流れ着いた。それを里の人が拾い上げきれいに洗い清め、葬られたということである。

     
   
 

「首洗い井戸」

 

 義経の怨霊に悩まされた頼朝が、その霊を祀るために葬られた場所の近くに建立したのが白旗神社と言われている。

     
   
 

 「白旗神社」

 
     
   
 

 「義経公鎮霊碑」

 

 頼朝への忠誠を誓いながらも思いが通じず、31歳という若さでこの世を去った義経であった。

編集後記
 白旗神社近くの酒屋で「弁慶と義経」という日本酒があると聞き、買って帰りました。湘南が、こんなにも義経に所縁がある場所だと言うことを、改めて知りました。

     
   
 

「弁慶と義経」

 
 
市民記者 No.104 三丁目の夕日
 
■コラム:古き良き時代を訪ねて - 8
「藤沢宿」
2007年03月26日

 今回は、江戸時代、遊行寺や江ノ島詣で賑わった、藤沢宿について調べてみることにした。

 まず藤沢宿について、全体が分かる地図はないかと探してみたところ、神奈川東海道ルネッサンス推進協議会が発行している宿場マップ「歩く・知る・発見する東海道!」を発見した。このマップは、藤沢市役所の土木計画課で無料でもらえることを知り、早速市役所5階に行ってみると、入口に置いてあった。神奈川県内の東海道の名所・旧跡を5分冊で紹介した地図で、所々旧跡の写真も載っていて、とてもグッド!である。藤沢宿を隅々見ていると、「蒔田本陣跡」という場所がとても印象に残り、この場所を中心に訪ねてみることにした。

     
   
 

「宿場マップ「歩く・知る・発見する東海道!」

 

 宿場というと、私の中では宿泊場所というイメージが強かったが、宿場には運輸・通信と宿泊の役割があることが分かった。宿場には一定数の馬や人足を日々用意しておく事が義務付けられていて、こうして用意された人馬で、幕府の役人や公用荷物、書状などが運ばれた。宿場の整備は徳川家康によって関ヶ原の合戦後に始められ、東海道では1601年(慶長6)に品川から大津までを53駅と定め、ここに東海道五十三次が始まった。整備は順次進められたが、全て整備されたのは1624年(寛文元)で、なんと20年以上にも亘る一大事業だった。

 さて、藤沢宿であるが、東海道の6番目の宿場町で、遊行寺の門前町として賑わったが、その後江ノ島、鎌倉観光の拠点としても賑わいを見せるようになった。藤沢宿の中心は、現在の遊行寺から白旗神社の間にある、藤沢公民館のあたりであった。今から約200年前頃の藤沢宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠49の規模だったようである。ちなみに、本陣は大名・旗本などの宿泊所、脇本陣は本陣に宿泊できなかった大名の家臣などの宿泊所、旅籠は武士や庶民の宿泊所である。また、武士や庶民が自炊で泊まった木賃宿もあった。
 さらに時代を遡る事200年、藤沢には本陣もなく、そのため将軍専用の「御殿」という宿が造られた。その広さはなんと6千坪もあり、東京ドームの約半分弱の広さがあったことになる。ここには、徳川家康、秀忠、家光も泊まり、関が原や大阪夏の陣に向かう行程にも入っていたといい、歴史の流れと一緒に歩んでいたことが分かる。昔は格式によって泊まる場所も分けられていて、格差社会の一面が垣間見られる。

 まず、蒔田本陣跡(藤沢1−3あたり)に行ってみた。昔ながらの建物は残っておらず、場所を示す標柱が立っていた。周辺には昔の商家の名残であろうか、大きな蔵は何箇所かで見ることができた。幕末期、本陣は蒔田源右衛門、脇本陣は大久保町に柏屋半右衛門家が、坂戸町では和田七郎右衛門家が権利を有し、運営していた。そこから藤沢橋方面に向かい通りを左に曲がると突き当りが藤沢公民館である。公民館前に周辺の名所、旧跡が書かれた「ふるさとまっぷ」があった。これもなかなかわかりやすい地図で、公民館の方にお願いすると1部譲ってもらうことができた。公民館横の道は陣屋小路と言い、このあたりの町内会も陣屋の名が付いている。

     
   
 

「蒔田本陣跡」

 
     
   
 

「大きな蔵」

 
     
   
 

「陣屋小路」

 
     
   
 

「陣屋小路会館」

 

 公民館の裏の方を歩いて行くと、陣屋橋があった。その横には道祖神があり、昔の面影を感じられる場所である。そこから、川沿いに藤沢橋方面に戻っていった所に御殿橋があった。遊行寺の門前にあった古い地図を見てみると、御殿は白旗神社と遊行寺の間のやや白旗神社寄りにあったようである。

     
   
 

「陣屋橋」

 
     
   
 

「道祖神」

 
     
   
 

「御殿橋」

 

 最後に、遊行寺から国道1号線を少し登った所にある一里塚跡に行ってみた。昔旅人は、一里塚を旅の目安として歩いていたのだろう。これを見た時、目的地までの距離を考え、ほっとしたり「まだまだ」これからと気持ちを引き締めたに違いない。

     
   
 

「一里塚跡」

 

編集後記
 藤沢公民館でいただいた「ふるさとまっぷ」の裏に、近年の藤沢の歴史が載っていたのだが、明治4年に藤沢から横浜間に人力車の営業が開始されたとあった。それほど道路の状況も良くない中で、車夫は大変だったことであろう。

 
市民記者 No.104 三丁目の夕日
 
■コラム:古き良き時代を訪ねて - 7
「運動会と足袋」
2007年03月01日

足袋との出会い

 あれは忘れもしない、小学校の運動会の時である。生徒の中の何人かがくつ下みたいなものを履いていたのを見て、最初は何かが分からなかった。そこには口をポカンと空けて、不思議そうに見つめている私がいた。それが運動用の足袋だと分かったのは、上級生の徒競走が始まってからのことだった。しかし足袋を履いていた生徒は、足が速い子供ばっかりであったと記憶している。まっ白な石灰を跳ね上げ、真っ青な空と真っ赤なお日さまを受け、額に汗を浮かべて颯爽と走る姿が、今でも脳裏に焼きついている。結局私は足袋を履く勇気はなかった。足が速い子供が履いていたのか、足袋を履いていたから速かったのか、今になっては定かではないのだが・・・。

 足袋が流行ったのは昭和40年代頃であろうか。その足袋を探して商店街に古くからある靴屋、はたまた呉服屋と訪ねてみたが、残念ながらとうとうその姿を見つけることはできなかった。「そうだ、インターネットがある。」と必死に探してみると、北名古屋市民俗資料館に見つけた。運動足袋を知っている人はどのくらいいるかな〜。

     
   
 

「懐かしの運動足袋」

 

運動会の思い出

 私が小学生の頃の運動会といえば、親戚も総出で応援に来てくれたものである。昼になると、みんなで重箱を囲んで食事をした。たこのウインナー、玉子焼き・・・。食後にはまだ八百屋に出たての青いみかんを食べ、みかんのへたを取って、中に何個実が入っているかを自慢げに話した。徒競走では、1等から3等までに入るとリボンをもらえた。1等になり赤いリボンをもらった子供は、運動会の間も帰りの道すがらも、自慢げに風になびかせていた。私と言えば、6年間同じクラスであった足のとてつもなく速い友人と、身長も似たようなものであったことから、いつも後塵を拝することとなった。ただ、6年生の時にどういう訳か、その友人と違う組になり、1等賞を取って満面の笑みを浮かべていたことを思い出す。


最近の運動会事情


 少しでも速く走りたい子供、それを必死に応援する親たちの姿は今の時代でも変わらない。ただ、大きく変わったと思えるのは、淡々と進むプログラムと家族の団欒が消えたことではないだろうか。

 私の時代には、1学年7、8クラスあったものが、少子化の影響から半分程度に減ってしまった。その代わり、運動会の運営はスムーズで、徒競走などで自分の子供が出場するまでの待ち時間は確実に短くなり、出場数種目数も多くなったような気がする。

 また、最近は昼食も親たちとは食べず、教室で食べている。これは、親が来られなかった子供のことを、学校側が配慮した結果と思われる。そんな時は、その子供の友人の家族が、子供を招き一緒に食事をすれば良いと思うのだが。そのような場を通して、子供が地域の大人たちと顔見知りになり、地域が子供を育てるという構図に少しでも近づけるのでは。権利ばかりを主張し責任を学校に押しつける親たち、それに萎縮し自由度を失ってしまった学校。
(春風亭昇太風に)それじゃ駄目じゃん!


最後に

 運動足袋の写真の利用を快く許可していただいた、北名古屋市、および民俗資料館のみなさま。心よりお礼を申し上げます。

 
市民記者 No.104 三丁目の夕日
 
■コラム:古き良き時代を訪ねて - 6
「深川ぶらり旅」
2007年02月19日

 私は時代小説が好きである。今までにいろいろな著者の本を読んでみたが、その中でも佐伯泰英氏の居眠り磐音シリーズが特に好きだ。さる藩の重役の息子である磐音は藩内の内紛に巻き込まれ、浪人として深川に住んでいる。これがまた心根がやさしく剣の達人で、強いの何のって、読んでいると自分もその気になってしまう。物語には深川周辺の地名が頻繁に出てくるが、六間堀、両国広小路、大川、竪川、両国橋、一ツ目之橋といった場所がどんな位置関係になるかを知りたくなり、昔と今の地名を重ね合わせて見える地図を買い込み確かめていたが、見るだけでは飽き足らず、自分の足で訪ねてみようと、ぶらり深川へ足を向けてみた。

 地下鉄大江戸線の森下駅を降りると、そこは昔の六間堀である。今は民家や小さな工場が軒を連ねているが、ここが小説の舞台となる長屋があったんだろうなと想像を膨らませながら歩いてみる。下町ということで、月島のような家が密集しているものと思っていたが、道も広く整然とした感じである。六間堀を歩き回っていると深川神明宮があり、その前に深川の由来について書かれている看板を発見した。それによれば、慶長元年(1596)に徳川家康が当地を巡視されたおり、その周辺を開拓していた深川八郎右衛門を呼びよせ、地名を尋ねたところ、地名がないことを知り、八郎右衛門の姓「深川」を地名とするよう命じたと言われている。

     
   
 

「現在の六間堀」

 
     
   
 

「深川神明宮にあった深川命名の由来記」

 

 六間堀を後にし、大川(今の隅田川)方面に行くと、幕府の食糧倉庫であった御籾蔵跡、幕府船舶の格納庫であった御舟蔵跡に出る。御舟蔵跡には、ビルが立ち並び、往時の名残は見られない。隅田川沿いに一ノ橋方面に歩いていると昔懐かしい看板を見つける。

     
   
 

「なんとも懐かしい看板」

 

 一ノ橋から竪川を望むと、今は高速道路の下となり日陰がやけに暗く感じた。ここは小説にも頻繁に出てくる場所である。現在では移動手段としてバスやタクシーを使うが、川や堀が縦横無尽に繋がっていた昔は、猪牙舟が庶民の移動手段であり、ここも舟が行き交っていたんだろうなと感慨にふける。橋の名前も昔は一ツ目之橋と呼ばれていて、大川から数えて一ツ目、二ツ目といった具合に名前が付けられていた。

     
   
 

「一ノ橋」

 
     
   
 

「一ノ橋から竪川を望む」

 

 一ノ橋を越えてしばらく行くと、回向院に出た。今からおよそ350年前の明暦3年、江戸には明暦の大火があり、10万人以上の市民が亡くなった。当時の将軍家綱は、亡くなった人々を手厚く葬るため、この地に御堂を建てたのが回向院の始まりである。入口は大通りに面していて喧騒な雰囲気であるが、中に入っていくと広く静かで落ち着いた雰囲気のお寺であった。

     
   
 

「回向院」

 

 回向院を出て左に歩いていくと、隅田川にかかる大きな両国橋がある。昔の両国橋は今より若干下流に架かっていた。橋の上から川を眺めると雄大さが伝わってくる。今は江戸の川めぐりが流行っているようで、観光船が頻繁に行き交う。両国橋を渡ったところが、昔は大衆演劇、落語などの見世物小屋や屋台が軒を並ベ賑やかだった両国広小路の跡がある。今ではこちらも低層のビルが建ち並び、活気があった時代を感じることはできない。

     
   
 

「両国橋」

 
     
   
 

「両国橋から隅田川を望む」

 

 そこから、大通りを渡ると神田川にかかる柳橋に出た。江戸時代、周辺は船宿が並んで賑わったが、江戸時代も後半になると、柳橋は花柳界が繁盛した。私も柳橋と言えば芸者さんをイメージするが、胸をときめかせながら周囲を見渡してみたところ、残念ながら芸者さんは発見できず、代わりに関取を発見する。柳橋際には、趣のある船宿が軒を連ねていた。

     
   
 

「柳橋」

 
     
   
 

「柳橋から神田川を望む」

 

 六間掘から始まった、深川のぶらり旅であるが、両国橋を渡ったところでいつも小説に出てくるメインの場所を歩き回ったことになる。残念ながら、昔の名残を見つけることはできなかったが、何か口では上手く言い表せない満足感があり、頭の中には地図がインプットされたので、これから小説を読む時は、自分の中で「タイムトリップしてみよう!」と意気込んだ。皆さんにも、自分が好きな小説や映画の舞台を訪ねて見ることを、是非お勧めしたい。

 
市民記者 No.104 三丁目の夕日
 
■コラム:古き良き時代を訪ねて - 5
「寅さんの足跡を訪ねて」
2007年02月05日

 TVで「男はつらいよ」全48作が放映されているが、以前は断片的にした見たことがなかった私は、連続的に見るうちに、今更ながらすっかり寅さんの魅力にはまってしまった。寅さんの今を楽しく生きる姿を見ていると、何かうらやましさを感じてしまう自分がいた。それは何故だろうと考えてみたが、映像から伺える人々のゆったりとした時間の経過を感じさせない生活ぶり、いつも寅さんを心配している心優しいさくら、おいちゃん、おばちゃんの姿、挨拶を交わし合い助け合う近所の人々といった全体と組み合わさり、良さがにじみ出ているからだと一人納得した。

 寅さんと言えば、今は無き大船の松竹撮影所で撮影されていたのだが、せっかく近くに住んでいることもあり、寅さんにゆかりの場所を訪ねてみようと、インターネットで検索してみると、渥美清さんがよく通った「でぶそば」を見つけ、早速訪ねてみることにした。

【いざ「でぶそば」へ】

 実はこの「でぶそば」、高校時代からのサッカーの親友の実家である。以前は松竹撮影所の人が多く来たとは聞いていたが、渥美清さんの話は知らなかった。昔、1月1日に行われる所属のサッカーチームでの初蹴りに行くため、家族で行っていた年末年始の旅行を一人で切り上げて帰ってきていたのだが、その当時正月に店はほとんどやっておらず、それを見かねて家に呼んでいただき食事をご馳走になった思い出がある。

     
   
 

「ここがでぶそば」

 

 「でぶそば」は、昭和24年に松竹撮影所の正門横のバラックで商売をスタートさせた。その頃のスタッフの人たちが、先代のお父さんにつけたあだ名のような形で「でぶそば」という屋号になった。渥美さんは、スタッフやマドンナ役の女優さんなどと6、7人で来て、決まって半チャン半ソバ半シューを頼んだそうだ。そんなことから、「でぶそば」では封切前に、次回のマドンナ役が誰かが分かったという得な一面もあった。なお、渥美さんは役柄とは異なり、とても繊細でまわりに気を使う方だったようである。

     
   
 

 「美味しくてボリュームがあった
半チャン半ソバ半シュー」

 

 松竹撮影所は、ピーク時には千名ほどのスタッフがいたようであるが、女優に合わせて作ったかつらや、各時代の小道具なども揃った大変貴重な財産をも保有していた。映画の撮影を行っていない時には、その貴重な財産を活用すべく、テレビのドラマ撮影も行われていた。その撮影所も平成12年に閉所され、大船の町は以前のような活気が無くなってしまったようである。今また邦画が復活のきざしを見せていることを聞くにつれ、大変残念な思いがあるが、やはり看板映画であった「男はつらいよ」が終了してしまった影響が大きかったのであろう。

【エピソード】

 「でぶそば」にはたくさんの俳優さんたちが来ていたそうだ。子供の頃の美空ひばりは、撮影所にいる音楽の先生に習いに来ていたそうだが、その頃訪ねてきたことや、結婚前の中村雅俊、五十嵐淳子が毎晩一緒に食事に来ていたことなどたくさんのエピソードがあった。山田洋次監督は、今でも鎌倉の方に用事がある時は、ふらっと寄っていかれるそうである。

 店内には、渥美清さんのサイン色紙が2枚あるが、1枚は漢字で書かれたものであった。渥美さんは漢字のサインはしない方だったようだが、生前付き人の方にこのサインを渡し、誰かに差し上げてくれと言っていたようで、亡くなった後わざわざその方が届けてくれたということである。私の頭の中は、今日も「男はつらいよ」の主題歌が流れているのであった。

     
   
 

「渥美清さんの漢字サイン」

 
 
市民記者 No.104 三丁目の夕日
 
■コラム:古き良き時代を訪ねて - 4
「報国寺・旧華頂宮邸・大船観音」
2007年01月09日

 今日は朝から風は強いが天気が良い。朝部屋の窓から富士山が見えたことを思い出し、「よし、江ノ島の展望灯台に登り初冨士ゲット!」と意気込み江ノ島に向ったが、江ノ島の橋の途中で富士山の方角を見ると、雲が完全に富士山を隠してしまっていた。せっかく登るのならくっきり見える時にしようと、すぐに気持ちを切り替え、鎌倉の心やすらぐスポットに行ってきた。

【報国寺】

 鎌倉の八幡宮から朝比奈方面に向かい、杉本観音を過ぎた右側に「報国寺」がある。1334年に仏乗禅師が修業のために休耕庵(現在では茶席になっている場所)を建てたところから始まったようである。寺の開基は足利尊氏の二代前の家時により創設され、寺の一角には家時を始めとする足利一族の横穴式墳墓がある。このお寺は竹林がすばらしく、約2千本の孟宗竹が並ぶ様は、何か別世界に迷い込んでしまったような錯覚を覚えるほど壮観である。竹林の庭を見ながらお茶をいただくことができ、とても気持ちが安らぐ。とても風が強かったが、見上げると、竹が揺れたすき間から見える青空も格別だった。

     
   
 

 「竹のすき間から見えた青空」

 
     
   
 

「竹林から休耕庵を望む」

 
     
   
 

「抹茶とお菓子」

 
     
   
 

「本堂の庭」

 
     
   
 

「茅葺きのかねつき堂」

 

【旧華頂宮邸】

 「報国寺」から奥に向い、2〜3分歩くと「旧華頂宮邸」がある。ここは、昭和4年に華頂博信侯爵邸として建てられたもので、平成8年に鎌倉市が取得し、現在庭園が一般公開されている。
 ここも、私が好きなスポットのひとつで、天気が良い日には、庭に面したベンチに腰掛け庭を見渡すと、整然とした庭とその先に山を眺めることができる。また、目を瞑れば静粛の中に鳥のさえずりだけが耳をくすぐる。たぶん春には満開の桜が庭を飾るのであろう。その時期にまた来て見よう。

     
   
 

「入口から見た旧華頂宮邸」

 
     
   
 

「庭から見た旧華頂宮邸」

 
     
   
 

「庭園を一望」

 

【大船観音】

 毎朝、出勤の際、観音さまのあの穏やかなお顔を眺めると、「よし!今日も一日頑張るぞ」と不思議な力を与えてくれる。鎌倉市にあるものの、大船駅に立地していることから、北鎌倉、鎌倉にあるような賑わいはないが、いつも参拝客は絶えない。
 この日は、もう夕方に差しかかっていたが、だんだん日が延びてきたことを体感しつつ、とても急な坂を上り入口にたどり着いた。観音さまの裏に回ると胎内に入ることが出来、ここでお参りと建立の経緯を見ることが出来る。昭和35年に復元されたが、自分の生まれた年であり、偶然以上の何かを感じた。

     
   
 

「参道から望む」

 
     
   
 

「日差しを受けて」

 
 
市民記者 No.104 三丁目の夕日
 
■コラム:古き良き時代を訪ねて - 3
「銭湯とフルーツ牛乳」
2006年12月25日

【家に風呂があっても銭湯へ】

 小学生の頃、父に連れられ銭湯へ行きました。家に風呂はあったものの、父はあの広々とした空間に心が和むのか、はたまた私はあの風呂からあがりたての乾いたのどを癒すフルーツ牛乳を楽しみに、2人で連れだって行きました。あの頃は靴箱が木札式で、あまり縁起の良くない番号は避け、大好きな巨人の高田の背番号と同じ8番をねらっていました。身体を洗いながら、父はよく石鹸箱にお湯を入れ、その上にのせたタオルに石鹸をつけ、タオルに口をつけて息をかけるとシャボンがぶくぶく出て、幼い私を楽しませてくれました。風呂からあがると早々に身体を拭き、一目散に冷蔵庫に行きフルーツ牛乳を手に取ると、紐にぶらさがったプラスティックの先についた針で蓋をあけ、一気ではなく何度かに分けて味わいながら飲んだものです。 

     
   
 

「今ではなかなか見なくなってしまった
フルーツ牛乳」

 

【古き銭湯を探して】

 昔ながらの銭湯を探そうと、インターネットで調べてみると、辻堂にある「若松湯」という銭湯を見つけました。解説を見る限りかなりレトロな雰囲気で、「これだ!」とピーンときた私は早速出かけてみました。
 辻堂駅から続く商店街のかなり奥まったところに、その銭湯はありました。インタビューをさせていただこうと、開店したての3時過ぎには到着したのですが、入口には自転車が並んでいて、一番風呂を楽しみにしている人たちに先を越されたと思いながらガラス戸を空け中に入りました。(ちなみにのれんはガラス戸の中にあり、一見すると休みかと思われがちですが、ちゃんとやっています。)男湯の木戸を開けると、右側に木札式の靴箱があり、入った瞬間、映画のセットを思わせるような、本当にレトロな雰囲気で、期待通りであったため、心の中でガッツポーズを取りました。まず番台で入浴料(現在は430円です)を払い、すぐさま市民記者を名乗り少しお話を伺えないかお願いしました。すると、番台にいた看板娘の順子さん(実は番台にはかなり年配のおばあちゃんを予想していたのですが)が、とても愛想よく答えていただきました。

     
   
 

「「若松湯」の入口」

 
     
   
 

「木札式の靴箱」

 
     
   
 

「看板娘の順子さん」

 

 「若松湯」は昭和30年代から続いている銭湯だそうで、今でも燃料は薪を使っているそうです。最近は家族連れの人も少なく、常連さんが多いようです。私が行った時もすでに年配の方が数人いらっしゃって、帰り際に番台へタバコを一本差し入れで置いていく人、料金を支払う際に昔の大きな50円玉で払う人など、とても人情味を感じ、ほんわかする気分にさせられました。

 私にとって銭湯の定番と言えば、フルーツ牛乳、富士山の絵、映画や指名手配のポスター、脱衣所の竹かごですが、ここ若松湯はさすが湘南にあるだけあり、稲村ヶ崎あたりから見た風景と思われる江ノ島と富士山という、とてもナイスショットなタイル画がありました。また、脱衣所には鍵つきのロッカーはなく竹かご、ポスター、そして年季が入った体重計もありました。お風呂に入って暖まっていると、隣の女湯からこれまた常連と思しきご婦人たち(声からして年配の方と思われましたが、覗くわけにはいかず未確認)が三段腹の話題に花を咲かせ、同じ境遇にある私は思わず耳がダンボになってしまった次第です。以前は冷蔵庫があり、たぶんフルーツ牛乳も売られていたようなのですが、残念ながら今は自動販売機になり、残念ながらフルーツ牛乳もありませんでした。

     
   
 

「江ノ島と富士山が楽しめるタイル画」

 
     
   
 

「竹の脱衣かご」

 
     
   
 

「真ん中にある大鏡」

 
     
   
 

「良い味だしてる体重計」

 

【「古き良き時代」考】

 今はスーパー銭湯に取って変わられているような古き良き銭湯でありますが、今でも周辺に住む年配の方々にとって、憩いの場であり、コミュニケーションの場になっていることを実感しました。文字通り裸の付き合いができる銭湯、これからも独特の良さを出し、継続していって欲しいものです。

【編集後記】

 今回お話を伺った順子さんは最近パソコンを購入し、年末にインターネットが開通するそうです。このサイトをPRさせていただきましたので、見ていただけることを期待しています。

 
市民記者 No.104 三丁目の夕日
 
■コラム:古き良き時代を訪ねて - 2
「駄菓子屋とあんこ玉」
 

【駄菓子屋通い】

 私は横浜の下町に育ったせいか、小中学生時代はよく駄菓子屋に通いました。その頃は通学路に何軒も駄菓子屋があり、おでん、あんず、すもも、あんこ玉といったところが、私の定番でした。あんこ玉は中に当たりの玉が入っていると、大きなあんこ玉をもらえたのですが、クラスに百発百中で当たりを引く友人がいました。しまいには、店のおばさんからあんこ玉を買うことを拒否させられたほどの技の持ち主でした。結局、その技はみんなに伝授されませんでしたが、みんな技を見につけたら出入り禁止になっていたかと思うと、良かったのかもしれません。

【駄菓子屋を探して】

 私の家の周りには、昔ながらの駄菓子屋がなく、市民記者仲間に紹介してもらった善行にある「ふじや」を訪ねました。昭和40年からスタートしましたが、今のご主人は以前やっていた方から引き継いだそうです。私が行った時は学校帰りの小中学生や、お母さんに連れられた子供たちが大勢いました。各自箱を持ち、好きなお菓子を取っていきます。私も昔買っていたあんず、すもも、ミルクせんべいなどなどを買ってしまいました。今は昔に比べ子供の数が減ったことと、家の中でゲームで遊ぶことが多いせいで、昔に比べ3分の1程度になってしまったそうです。スーパーができて、お菓子も豊富に手に入るようになってきたことも影響しているということでした。

     
   
  「昔ながらの「ふじや」の佇まい」  
     
   
  「楽しそうにお菓子を選ぶ子供たち」  
     
   
  「昔買っていたお菓子をゲット」  

【あんこ玉の製造元を探して】

 駄菓子屋に通っていた頃は、あんこ玉の製造元までは知りませんでしたが、いろいろ調べた結果、「元祖植田のあんこ玉」が有名ということが分かりました。この植田製菓工場が東京の東尾久にあるということが分かり、訪ねずにはいられませんでした。JR田端駅から十分足らずで東尾久に到着すると、中小の工場と民家が混在している下町の風景に出くわしました。私の祖父は蒲田で鉄工所をやっていたのですが、昔嗅いだ鉄の匂いに、とても懐かしさを感じました。その町中に、一見普通の民家の佇まいの植田製菓工場を発見し、早速お話を伺おうとお邪魔すると、植田さんがいらっしゃいました。

     
   
  「普通の民家の佇まいの工場」  
     
   
 

「品質にこだわる職人気質で釣り好きな植田さん」

 

【あんこ玉誕生秘話】

「あんこ玉はどういうきっかけで作られたんですか。」
「そもそもは駄菓子問屋に勤めていた私の親父が独立して、その当時独立すると職人を付けてくれる慣わしがあったのですが、たまたま瓦せんべいの職人で、関東では瓦せんべいは売れないので、羊かんを作ったんです。それを問屋に卸したんですが売れずに持ち帰り、煮返したんです。そうしたら、大量のあんこだけが残ってしまい、それをまるめて当てくじにしたのが始まりです。」

「最初は問屋に持って行ったのですが、羊かんのこともあり引き取ってもらえず、家の近所にあった30軒ほどの駄菓子屋に一箱づつ置いてもらいました。翌日行くと売れ行きがいいので、2箱、3箱と増えていきました。ある時期、また問屋を訪ねてみたのですが、引取りには難色を示されたんだそうです。そこにたまたまお客さんが2人いて、あんこ玉に興味を持って、持参した50箱を半分ずつ引き取ると言ってくれました。それを聞いた問屋が売れると思ったのか、大量に仕入れてくれるようになりました。」

「一番売れたのはいつ頃ですか。」
「昭和4年に創業したのですが、3年目の昭和7年頃が一番売れました。今でも冬のピーク時には、1日3千箱、重さで言うと2トンは製造しています。」

「必ず当たりを引く友達がいたのですが、判別できるものなんですか。」「親父は子供に売るものだから当たりが分かった方が良いと言っていましたが、実際は難しいと思います。箱詰めはまず当たりのあんこ玉を入れ、その上にあんこ玉を乗せて混ぜ合わせています。人のくせで配置が決まらないように工夫しています。」

     
   
 

「あんこ玉の出来上がり」

 
     
   
 

「あんこ玉の箱詰め」

 

【植田さんにとっての古き良き時代とは】
 「子供の頃、近所の駄菓子屋によく行きましたが、当時はどこでももんじゃ焼きも食べさせてくれ、子供たちのコミュニケーションの場になっていました。そこで子供ながらにも上下関係も学びましたし、近所の怖いおじさん、おばさん達に怒られながら、物事の良し悪しも理解したように思います。そんな時代が古き良き時代でしたね。今世間では子供たちの陰湿な事件が起きていますが、昔のような付き合いがなくなっているからだと思います。そんな中でもここ浅草を含めた下町界隈は、昔の雰囲気が残っていて、近所通しは良い関係を保っています。お祭りの時はみんなこぞって参加し、活気がありますよ。」

【「古き良き時代」考】
 地域の方々と良好なコミュニケーションを持てた時代、それが植田さんの言う「古き良き時代」だったように思えます。団塊の世代の方々が定年となり、最近地域には高齢の方々が回帰しているようです。私の周りにも定年を控え、何か地域とのつながりを持ちたいと考えていらっしゃる方々がいます。それを考えると「新しき良き時代」を作るチャンスなのかもしれませんね。

【編集後記
 今回お話を伺った植田さんは大の釣り好きで、湘南魚影会というクラブに入り、月に1度は湘南に足を運んでいるそうです。投げ釣りが専門で、お気に入りスポットは、大磯から国府津にかけての海岸線ということでした。お話を聞く前に私の自己紹介をしたところ、「藤沢」というキーワードで話が盛り上がってしまいました。

 
市民記者 No.201 三丁目の夕日
 
■コラム:古き良き時代を訪ねて - 1
「プロローグ」
 

 「古き良き時代」...いろいろな場面で聞くこの言葉ですが、それはどんな時代なのと聞かれても、またつきつめて考えてみても、なかなか「この時代」と言い切れるものがないように思えます。たぶん、それは人それぞれによって定義が異なり、生まれ育ってきた過程で、自分自身が心地良い瞬間を味わった時代なのではないでしょうか。

 それは、「人間との関わりあいを持てた時代」、「夢を追いかけていた時代」、「今の時代にはない何か懐かしいものに接していた時代」、「世間の風潮が自分に合っていた時代」、「歩みの遅さが心地よかった時代」。そんな時代が人々にとっての「古き良き時代」ではないのかなと...。そのような場面に接した時、人は不思議と心が温まります。

 少し前になりますが、「三丁目の夕日」という映画を家族で見に行きました。自分の生きた時代とラップする時代設定にとても懐かさを感じ、歳とともに弱くなった涙腺の協力もあり、涙が止まらなかったものでした。今考えてみると私にとっての「古き良き時代」は、その時代(小中学校の時)だったのかもしれません。

 私はこのコラムを通して、自分にとっての「古き良き時代」を探りあてたいと思っています。そして、それがみなさんにとっての「古き良き時代」探しのきっかけを作れれば幸いです。この世知辛く人間らしさが少しずつ失われてきた時代の中で、心のゆとりの重要さを感じて...。

     
   
  自宅(某町三丁目)から見た夕日  

 

 
市民記者 No.201 三丁目の夕日
 
■コラム:藤沢の文学碑散策
「ヨネ ノグチの生涯」
 

 今日は、藤沢にゆかりのある文学碑を、藤沢市生涯学習大学講師を務める島津先生のご案内で散策をしてきました。江ノ電石上駅に集合し、佐川英三詩碑を皮切りに、庚申堂、遊行寺、常光寺と散策いたしましたが、その中でも常光寺に墓碑があり、今年が没後60年目という野口米次郎に着目してみました。

 野口米次郎は、アメリカで活躍し、日米の文学の架け橋となった人で、アメリカではヨネ ノグチの愛称で親しまれた詩人です。ヨネ ノグチが死の前日、枕頭に老夫人と子供達を集めて、まだ会ったことのない異国の子供がいることを告白し、孤独な息子を温かく迎えて欲しいと頼んでいます。その息子こそ、20代の渡米中に、アメリカ人女性レオニーとの間に生まれた、偉大な彫刻家イサム ノグチでありました。この時、辞世の句として墓碑にある「鐘が鳴る かねがなるこれを即ち 警鐘と言うのです これがなると皆ねます さあみんな 眠りましょう」が生まれたのではないでしょうか。

     
   
     

 イサムは2歳のときにレオニーとともに来日し茅ヶ崎市に住みましたが、米次郎は一切会おうとしなかったといいます。しかし、墓碑はイサム ノグチが設計したと言われていますし、常光寺の賽銭箱に1セントが入っていたこともあったそうです。ヨネが臨終の際に残した家族への言葉、冷たくされても父を想うイサムの姿からは、親子の固い絆を伺い知ることができます。

 最後にヨネ ノグチの詩をご紹介します。この詩にはそのものを楽しむというより、余韻を楽しむという、様々なものに追いまくられ、余裕を失った現代の私たちに、気持ちの余裕の楽しさ、すばらしさを教えてくれる気がします。

 
【私は太陽を崇拝する】 作/野口米次郎

私は太陽を崇拝する・・・・・
その光線のためでなく、太陽が地上に描く樹木の影のために。
ああ、喜ばしき影よ、まるで仙女の散歩場のやうだ、
其処で私は夏の日の夢を築くであらう。

私は女を礼拝する・・・・・
恋愛のためでなく、恋愛の追憶のために。
恋愛は枯れるであらうが、追憶は永遠に青い、
私は追憶の泉から、春の歓喜を汲むであらう。

私は鳥の歌に謹聴する・・・・・
それは声のためでなく、声につづく沈黙のために。
ああ、声の胸から生れる新鮮な沈黙よ、死の諧音よ、
私はいつも喜んでそれを聞くであらう。

     
     
     
 
市民記者 No.104 三丁目の夕日
 
■コラム:江の島の自然
「ああ憧れの江ノ島展望灯台」
 

 今日は、江ノ島に造詣が深い高山さんの案内で、島内を散策し、八丈島から流れ着き育ったハチジョウススキ、岩場に生息している食用のマガキ、関東大震災での隆起した地形等、興味深い数々のお話を伺うことができました。

 その途中、婦人会館の裏手の方にある岩場の手前のちょっとしたスペースが、江ノ島の展望灯台の建替え時にストックヤードとして使われました。工事の際は展望灯台の周辺をダンプカーが行き来していたそうですが、先生からどうやってダンプカーが頂上に行ったかという質問が投げかけられました。その時、私の頭の中には、かなり昔に流行った「地下鉄はどこから入れたんでしょうね。」という、あの地下鉄漫才のせりふが閃光のようにかけめぐりました。答えを聞いてまたびっくり。なんとダンプカーを解体して、クレーンで持ち上げたということであります。そんなことで、今回はとても興味を持ってしまいました江ノ島の展望灯台について調べてみることにしました。

 天気が良い日には相模湾から丹沢、はたまた遠く富士山を一望できる江ノ島の展望灯台。この展望灯台が建替えになったのは、今から3年前のことでした。新装オープンした当時は、宣伝効果もあり押すな押すなの騒ぎでありました。

【旧展望灯台はどんな灯台だった?】

 そもそも、旧展望灯台は、江ノ島電鉄により昭和26年3月植物園開園とともに開場されました。パラシュートの降下用に作られたものを移設し、展望灯台として流用されました。当時、現在ほど建設運送機材が発達していなかったため、建設工事にはかなりのご苦労があったようです。高さは53.7mで、光の到達距離は46kmと3等級では最大でした。

 この等級とは、星のように明るさかなとも思ったのですが、早速インターネットで調べてみると、使用しているレンズの大きさによって等級は格付けされるものだということが分かりました。ちなみに、1等級の沖ノ島灯台は74kmもの到達距離があるということでした。海上の人たちにとっての支えとなる灯台だけに、たいしたものと変に納得してしまいました。

【新展望灯台は?】

 一方、新展望灯台ですが、今から3年前の平成15年に、老巧化した旧展望灯台の建替えという形でこの世に出現しました。高さ59.8mと旧展望灯台より約6m高く、光の到達距離は46kmと旧灯台と同様で、民間灯台としては国内最大級ということです。毎日、日没から夜10時までライトアップを行っていて、様々な色に変化し、観光客、はたまたカップルの目を楽しませています。景色を満喫するには、空気が澄んだ2月頃が「最高!」と高山さんもおっしゃっていました。今では江ノ島の展望灯台からのリアルタイムの映像を見ることも出来ます。

 是非、あなたも一度江ノ島の展望灯台に登り、すばらしい眺めを満喫してみてはいかがでしょうか。


「映像サイト」
  http://musns.mus.city.fujisawa.kanagawa.jp/

     
     
     
 
市民記者 No.104 三丁目の夕日
 
■コラム:藤沢の自然と歴史
「遊行寺レポート」
 

「はーい。今日は藤沢の遊行寺にやってまいりました。遊行寺と言えば、初詣の賑わいやお寺の前の坂を通る箱根駅伝を連想させますね。今日は藤沢の歴史に詳しい小林さんにお話を伺いたいと思います。まず遊行寺の名前の由来から教えていただけますか。」

「市民から親しまれている遊行寺ですが、藤沢山無量光院清浄光寺(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこうじ)という正式名をご存知の方はあまり多くないのではないでしょうか。そもそも遊行とは、お坊さんの仕事の中心でして、お寺を持たずに全国を歩いて布教活動を行うことを指すんですね。昔一遍上人というお坊さんが多くの弟子を連れて全国行脚を重ねていたようです。毎年10名ほどは亡くなってしまっていたようなので、結構つらい修行だったようです。そのうち、遊行の中で念仏札の配布を始めるようになるのですが、これは念仏を唱えるかどうかにかかわらず人々に配布したようですね。」

「今でいう広告のチラシのようなものだったんですね。」

「その当時では画期的な布教方法でした。一遍上人の志を継ぐ四代目の呑海上人というお坊さんがいて、この方が歳を取って歩けなくなった時に拠り所となるお寺が欲しかったんですね。これを独住と言うんですが。そこで兄の俣野五郎景平の援助によって、極楽寺という廃寺を1325年に再建したのがはじまりです。」

     
   
     

「そんなに古いお寺なんですか。それでは何故遊行寺と呼ばれているんですか。」

「その後、歴代上人も遊行の引退後にこのお寺に住むようになったことから、通称遊行寺と呼ばれるようになりました。」

「そういう意味があったんですか。一時焼けてしまいなかなか再建されなかったと伺ったんですが。」

「このあたり一帯は、1513年に北条早雲と三浦道斗との戦いの戦場となり、遊行寺も全焼してしまいました。
 それからすぐには再建されず、遊行のお坊さんたちは水戸の神應寺というお寺に移りました。お坊さん達は藤沢を懐かしんだんでしょうね。今でも水戸駅から神應寺への道に藤沢小路という名前の道が残っています。
 それでも、約100年後の1607年に再建され、今に至っています。」

「いつも市民の憩いの場となっている遊行寺ですが、様々な歴史があったんですね。小林さんどうもありがとうございました。それでは、まだ夏の日差しとせみの声が残る遊行寺からのレポートでした。スタジオに返します。」

     
   
     
     
     
     
 
市民記者 No.104 三丁目の夕日
 
■コラム:きらきらのあの日
「サングラスの輝き」
 

 それは、私がまだ入社して間もない20数年前の出来事である。その頃、私はあるサッカークラブに所属していた。このクラブは社会人と小学生のチームがあり、その当時小学生チームは神奈川県でも強豪で、後にJリーガーを輩出している。このクラブへは高校3年生の頃、友人の紹介で入ったのだが、メンバーは教員や議員秘書、バスの運転手などなど、とてもバラエティーに富んでいた。しかし、みんなの気持ちの中には「強くなりたい」という共通の思いがあった。

 その当時、リーグ戦で優勝はするが、入替え戦で敗れてしまうという屈辱が続き、みんなの心の中に沸々とした思いがあった。そのためか練習にも熱が入り、毎週土曜日の全体練習以外にも、平日の夜集まれる者だけで公園の薄明かりの中練習したり、各自で日々走ったりと努力を積み重ねていた。その年もリーグ戦で優勝し、次の試合に勝てば悲願の上位リーグに昇格というところまできたが、相手は大学生ということで、社会人の我々にとってはハンデになると思われた。

 いよいよキックオフ。やはりあたりが激しくとにかく走るが、こちらも練習の成果からか互角の展開。そして前半、コーナーキックのチャンスから、ヘディングシュートが決まった。「ヤッター、先制だ」。前半はリードのまま終わり、後半早々同点にされてしまった。しかし、いよいよその時がやってきた。センターライン際からボールがフィードされ、ゴール前の味方へ。その瞬間、アイコンタクト。ボールはヘディングで私の前に。それを無心で蹴ったところゴールが決まった。どうしようもない喜びが溢れてきてみんなと歓喜の渦へ。結局そのまま試合終了となり、悲願であった昇格を達成することができた。

 実は、ヘディングシュートの際、相手の頭で顔を強打し、脳震盪を起こしてしまったが試合はそのまま出場していた。翌日顔を腫らした私は、何を考えたのかサングラスをして会社に行ったものである。(ボクサーか)
同じ目標を持って努力していたその頃の仲間は、今でも一番気のおけない友人として付き合っている。これは私にとってかけがえのない財産である。

     
     
     
 
 

三丁目の夕日


ウォーキングやスポーツクラブで汗を流すスポーツマンは、県内でも強豪のクラブチームで活躍したという元サッカー選手。本人曰く「家庭では厳しいライオン」であり「「会社でも厳しいキツツキ」だが本当は「コタツ」・・・慌ただしい今の時代に、一服の憩いを求め、懐かしい風景を探し求める。「あなたにとって、古き良き時代とは?」



 
藤沢市市民記者一周年記念誌「ふじ記第1号」
→ PDFデータを見る
 
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「市民記者養成講座」は慶應義塾大学金子郁容研究室(文部科学省/現代GPプロジェクト)と藤沢市の共同で開催され、ISIS編集学校(編集工学研究所)のカリキュラムの一部が利用されています。また、この市民記者のページは編集工学研究所のサポートで運用されています。