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電縁都市ふじさわ市民記者養成講座を修了したみなさんです。
 
市民記者 No.308 風姿マニマニ
 
■コラム: 江の島の〈自然に学ぶ〉〈歴史を展く〉
「平成版・江の島道中膝栗毛」〜第二章〜
2008年10月17日

◆ 龍伝説の島 ◆

「喜多」ご隠居、道中の道すがら、クイズを出しますよ。
    北京オリンピックのメダルの図案は、な〜んだ?

「弥次」表は国際オリンピック委員会が指定した図案だから、ギリシャ
    神話の女神ニケとアテネのパナシナイコ競技場だな。
    裏は開催国の文化に因むので、龍かなぁー。

「喜多」さすがですね。
    古代中国の装飾品である「竜紋玉璧」をかたどったデザイン
    らしいです。龍は中国のシンボルというけど、江の島にも
    龍伝説はあるじゃないですか。

「弥次」「江島縁起」に書かれている「五頭竜と天女」の伝説じゃな。
    昔、鎌倉・深沢の湖に五つの頭を持った龍が住んでおった。
    その龍は、山は崩す、病を流行させる、洪水台風を起こすと
    やりたい放題。困り果てた人々は、生贄を捧げたりして静め
    ようとしたが乱暴狼藉は止まない。
    16人の子供全てを五頭竜に飲まれた長者は、死んだ子を恋い
    慕いながら他村へと逃げていった。 その時から深沢から西へ
    行く道を「子死越(こしごえ)」と呼ぶようになり、腰越の
    地名の起こりであるとも言われてるな。

「喜多」竜を恐れて人々が去り、村が荒むと大地震が起こったんでしょ。
    この異変で、今まで何もなかった子死越前方の海に忽然として
    一つの島が現れた。これが江の島の誕生だと言いますよね。

「弥次」島には美しい天女も舞い降りたんだな。一目惚れした竜は結婚を
    申し込むが、散々悪行をした報いで、ことはそう簡単には
    運ばない。

「喜多」当然、竜は心入れ替えて人々を助ける努力を惜しみなくやるんで
    すね。女性の力は強し。俺にもそんな天女が現れないかな〜。

「弥次」今からでも改心できるぞ。
    天女は日頃の行いを見てるものだからな。竜の固い決意に打たれ
    た天女は結婚を受け入れて、村人のために互いに力を合わせたん
    じゃ。だが、シアワセというものは長く続かないもんだ。

「喜多」竜はだんだん衰えて、最後の決意をするのですよね。
    自分の寿命の尽きるのを知った五頭竜は、
    天女に「死んでも私は山となって島と里人を守ります。」
    と告げ、対岸に渡り江の島の方に向かって長々と横たわり一つの
    山なったというんでしょう。泣ける話だよな。

「弥次」これが現在の片瀬山で、竜の口のある場所が、現在の竜の口で
    あるという。里人はこの山を竜口山と呼び、五頭竜を祭った社を
    建てた。これが竜口寺の西隣にある竜口明神で、五頭竜の木彫り
    のご神体がおさめられ、今でも60年に一度の「巳年式年祭」の
    日には、おみこしに乗せて江の島へ渡り、天女の弁財天と
    あわせているというんじゃな。

     
   
 
 

「喜多」ご隠居、龍は想像上の動物ですよね。
    いつ頃、生れたんですかね。

「弥次」古代中国の動物の骨に刻まれた占いの文字や、青銅器の表面に
    施された文様装飾に、人間の想像から生れた最初の龍の姿が
    出現してるという。やがて変化を遂げ、まず漢字の「龍」が
    でき、他方では絵に描かれ、彫刻に彫られたんじゃ。

「喜多」龍はいろんな動物に似てませんか?

「弥次」そうじゃ。その大元は蛇であったと言われているな。
    蛇を主体にして、種々様々な動物の体の部分を組み合わせて
    できたんじゃ。完成した龍の姿は、中国では帝王を象徴する
    ものとなり、皇帝を表す龍は、色は黄、爪の数は五つと決まって
    いたそうだ。

「喜多」仏教やキリスト教とは関係ないんですか?

「弥次」あるのだよ。インドで生れた仏教では、龍は敵対者から仏法の
    擁護者になってな。キリスト教の世界では、蛇と龍は始めから
    終わりまで悪魔だ。つまり、崇高な王として、邪悪な敵として、
    混沌とした闇の力として、龍は世界中の人々の想像の中で生き
    続けてきたのじゃ。

「喜多」日本に龍が登場するのはいつからだろう?

「弥次」質問攻めだな〜。龍は1300年以上前に、突如劇的に日本に
    登場して、またたく間に物語の主人公になったのじゃ。
    「日本書紀」では「人を乗せて空を飛び去った龍」の話がある。
    「今昔物語」には「龍を見た男」や「雨を降らせて殺された
    龍の話」があり、龍に祈って雨乞いを最初にしたのは、
    弘法大師空海とも書かれているな。
    不思議な力を持った龍蛇の物語は、様々な説話の流れをつくって
    きた。そこから能、浄瑠璃、歌舞伎、舞踊などの芸能にもなり、
    日本を代表する説話のひとつになったものが「道成寺」じゃ。

「喜多」龍も粒粒辛苦(りゅうりゅうしんく)、一通りでない苦労を
    重ねて伝わってきたのですね。

「弥次」はは。駄洒落かね。クイズのお返しに日本中世のなぞなぞだ。
    「いずみに みずなして りうかえる」ってな〜んだ。

「喜多」泉に水無しで、龍が帰ったのか。う〜ん!(^^)!
    泉に水がない→【白】、りうかえる(返る)→【うり】で、
    【白瓜】だね。

 
市民記者 No.308 風姿マニマニ
 
■コラム: 江の島の〈自然に学ぶ〉〈歴史を展く〉
「平成版・江の島道中膝栗毛」
2008年10月17日

ご存知、十返舎一九の洒落本「東海道中膝栗毛」は、江戸神田八丁堀の弥次郎兵衛と喜多八が厄払いにお伊勢参りを思い立ち、行く先々で騒ぎを起こす物語である。藤沢宿も出てくる。茶店で団子を焼いてもらっていると、60歳あまりの合羽を着て風呂敷を背負った男が江の島への道を尋ねるが、珍道中する弥次・喜多のことだから、応対ままならずの展開。しかも、二人は江の島へは立ち寄らないではないか。もったいない。膝栗毛とは、膝を栗毛の馬の代用とする意から徒歩で旅行すること。ならば、物知り弥次郎兵衛翁にお供する軽佻浮薄な喜多八青年を仕立てた平成珍道中とまいろうか。ぐるっと一周4km・標高60mの江の島は、現代人にとって、見所満載、格好の散策コースでありましょう。

     
   
 
 

◆ 神と仏の島 ◆

「喜多」ご隠居、この弁天橋を渡ると江の島ですぞ。
    潮の香りがしてきましたぜ。
    9月ともなると、水着姿のお姉ちゃん達はいませんねぇー。
    つまんないっすね。シラス丼か蛸せんべいでも食いましょうか。

「弥次」相変わらずの調子もんじゃのう。
    ちょっとは気を引き締めなさい。
    江の島は天武天皇元年(672年)に、役小角(えんのおづの)が
    基を開いたと言われ、それ以来、島全域が聖域として扱われて
    いたのじゃ。

「喜多」ひぇー、聖域ですか。
    ところで、その役小角とは何者なんですか。
    将棋の駒みたいな名前ですね。

「弥次」呪術者でな。修験道の開祖と言われている人じゃ。

「喜多」シュゲンドウ? そりゃまた、どんな道ですか。

「弥次」山を神として敬う古来日本の山岳信仰と神道、仏教、道教、
    陰陽道などが習合して確立した日本独特の宗教じゃ。
    山へ籠もって厳しい修行を行う事により、様々な「験」
    (しるし)を得る事を目的としてな。
    修験道の実践者は修験者とも山伏とも言われておるぞ。
    明治元年の神仏分離令に続いて、明治5年に修験禁止令が
    出され、修験道は禁止されたんじゃ。

「喜多」ふ〜ん。神と仏はいっしょくただったんですか。
    ♪人生いろいろ、仏もいろいろ、神だっていろいろ、
    咲き乱れるわ〜♪
    島倉千代子に歌ってもらいたいよ。

「弥次」一神教を信じる海外の人たちは怪訝に思うだろうが、日本では
    古くから多仏多神を上手く組み合わせて信仰してたんじゃ。

     
   
 
 

「喜多」ご隠居。いつの間にやら橋を渡って、青銅の鳥居が見えてき
    ましたね。参道が続きますが、江島神社は何の神さまですか。

「弥次」仏教との習合により江島は金亀山与願寺と号し、歴代の鎌倉幕府
    将軍・執権や、代々の領主から崇敬を受けたんじゃな。
    江戸時代には弁財天信仰が盛んになり、多くの庶民が参詣する
    ようになったのは知ってるな。これも明治の神仏分離令で仏式を
    廃して神社となり、江島神社と名前を改めたわけじゃ。

「喜多」プン、プン! またしても神仏分離かい。
    イロイロの方が色っぽいのに、明治政府は罪深いじゃありま
    せんか。ところでご隠居、弁才天は女神さまですよね。
    将軍も女に弱かったんでしょうね。

「弥次」馬鹿なことを言うんじゃない。
    弁才天はサンスクリット名サラスバティーを仏教がとり入れら
    れたもんじゃ。サラスバティーという言葉は、古代インド各地の
    聖河の名称であり、それら大河の偉大さを神格化した豊饒の女神
    であったのが、やがて言語、音楽、学芸の神となったんじゃ。

「喜多」えっ? お金の神さまじゃないんですか。

「弥次」それは、ずっと後のことだ。多方面の技能をもち、豊かな国土を
    実現する弁才天に対する信仰は、日本にはすでに奈良時代に国家
    仏教のなかにとり入れられたんじゃ。江戸時代になって才より
    財の字が使われ、蓄財の神として庶民の間に広く弁財天として
    信仰されるようになったというわけじゃ。

「喜多」日本の神さまかと思ってましたよ。

「弥次」そうとも言えるぞ。
    弁才天信仰はもともと仏教とともに伝来したが、中世以降、
    弁才天信仰は神道と日本土着の水神である市杵島姫命(いちき
    しまひめ)や宗像三女神や宇賀神と習合して、神社の祭神として
    祀られることが多くなったんじゃ。
    特に、この江の島、琵琶湖の竹生島、安芸厳島にまつる弁才天が
    日本三弁天として有名じゃな。

「喜多」ご隠居。何で神さまは方々にいるんですか。
    家にも弁財天を祀ろうかな。

「弥次」それじゃ、ご利益がないだろうな。
    でも分霊という神道用語があってな。
    みたま分けじゃな。神道では、神霊は無限に分けることができ、
    分霊しても元の神霊の神威は損なわれず、分霊もまた本社の神霊
    と同じ働きをすると考えられているんじゃ。
    分霊を他の神社に移して鎮祭することを勧請(かんじょう)と
    いって、勧請はその神の根源とされる神社から行われ、その神社
    が総本社・総本宮というわけじゃ。

     
   
 
 

「喜多」江島神社の祭神はだれですかね。

「弥次」御祭神は、天照大神が須佐之男命と誓約された時に生まれた
    宗像三女神で、三人姉妹の女神様じゃ。 奥津宮の多紀理比賣命
    (たきりびめ)、中津宮の市寸島比賣命(いちきしまひめ)、
    辺津宮の田寸津比賣命(たぎつひめ)を江島大神と称してるな。
    古くは江島明神と呼ばれていたが、仏教との習合によって
    弁才天女とされ、江島弁財天として信仰されるに至ってな。
    海の神、水の神の他に、幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を
    持つ神として、今日まで仰がれてるんじゃ。

「喜多」宗像三女神って九州じゃないですか。

「弥次」ほう。よく知ってるな。福岡県の宗像大社に祀られているな。
    朝鮮への海上交通の平安を守護する玄界灘の神として、
    大和朝廷によって古くから重視された神々であるぞ。

「喜多」地域によって信仰が違いますね。そう言えば、中津宮傍の参道
    両脇にある石灯籠は、江戸時代に歌舞伎の市村座と中村座が
    献灯したそうですね。

「弥次」そうじゃな。1985年に献灯200年を記念して植樹されたのが
    「菊五郎のしだれ桜」で、7代目菊五郎丈によるもんじゃな。
    おい、喜多八よ。何をしとるんじゃ。がに股になって。

「喜多」知らざあ言って聞かせやしょう。
    見得を切って、おいらは、弁天小僧だぁーい。

     
   
 
 
 
市民記者 No.308 風姿マニマニ
 
■コラム:藤沢でがんばる畜産・農業
「伝統への接ぎ木」
2008年10月17日

子どもの頃、故郷の川では鰻が獲れたので、我が家でも直売の鰻にありつけた。父が生きた鰻を捌く間に、母はたれを準備し、私は七輪の火を熾して、家族で蒲焼を楽しむ。祖母の家では祝いごとがあると、飼育していた鶏が食卓を飾るのが慣わし、大学の合格祝いに何が欲しいかと叔母に言われて、私は手作り蒟蒻をリクエストした。宮地勇輔さんと亀井利貞さんの話を聞きながら、そんな眠っていた記憶が芋づる式に目を覚ました。

賞味期限の改ざん、汚染米流通、毒入り餃子事件など無縁な時代のこと、生産者の顔も食事の味わいの一つだった。古い過去ではない。50年くらい前のことだから、人類史から見ればつい最近の出来事なのだ。

江戸時代の日本は、食料の自給率100%。明治になっても、ほとんど変化なし。戦後、日本の食糧の自給率は徐々に下がり始め、農林水産省の2006年自給率調査では、米(94% )野菜(79%)肉類(56%)果実(39%)小麦(13%)大豆(5%)、総合自給率(39%)となっている。地域別に見れば神奈川県や藤沢市では僅か3%である。人々は利便さと物量の大波に飲まれて、食することの喜びから遠く流されて来たことを思い知らされた。

     
   
 
 

宮地勇輔さんは1978年生れの新進気鋭の青年農業プロデューサーである。起業家を志してはいたが、実家の農業を継ぐ気はなかったという。会社勤務で経験を積む傍ら勉強するうちに、日本の農業が抱える問題を憂慮するようになる。

基幹的農業従事者は260万人、平均年齢65歳、6割近くが65歳以上で、この10年間で農家は70万軒減少している。後継者不足は、第一次産業に魅力がないからだと宮地さんは考え、その根本原因は、生産者と消費者が切り離されているからだという確信にいたる。

では、どうすればいいか。宮地さんは養豚業に3つのビジョンを掲げ、家業を継ぐ意志を固めたのである。「生産から顧客の口に届けるまでを一貫してプロデュースできる養豚業になる。農業の活性化と地域の活性化を同時に実現するモデルを湘南に創る。農家の子が、胸を張って家は農業をやっていると答えることができ、将来後を継ぎたいと思える魅力的な産業にする。」というものだ。

2006年9月に株式会社「みやじ豚」を創設して以来、時代と社会に求められていた勇断は、藤沢市のみならず全国的にその認知度を広めている。「第一次産業をかっこよくて・感動があって・稼げる3K産業に」というミッションは農業イメージを大きく変え、21世紀の伝統になるかもしれない。

     
   
 
 

藤沢市農業経営士協議会会長の亀井利貞さんは、先祖代々400年続く農業を守ってきた人だ。藤沢市では、畜産から花栽培まで農業就業者数は2054人(2005年調査)、県知事認可を受けた農業経営士は現在82名という。本業に従事しながら後継者の育成や農業の啓発活動をしている。具体的な活動談から、後継者不足を何とかしたいという強い思いが伝わってくるのだった。

長年の野菜作りも、一筋縄でやってきた訳ではない。例えば、きゅうりの話題。「ブルームきゅうり」と呼ばれる種類がある。ブルーム(bloom)は花という意味もあるが、野菜や果実の表面に付く白い粉(果粉)のことで、元来植物が持っているものである。ブルームきゅうりは、皮が柔らかく香り豊かで美味しいのだ。なのに、あろうことか!この粉が農薬ではないかと、白い目で見られたのだという。無知は愚かというべきか。

キュウリは病気を防ぐために、「接ぎ木」という伝統の技術を使い、上はきゅうり、下はかぼちゃというスタイルで生産をしていた。そのかぼちゃの品種を変えると、ブルームが出ないようになったそうだ。この方が、皮は硬いが見た目にきれいで売れるから、今は主流である。しかし、亀井さんは、何とか美味しいきゅうりを作ろうと、ブルームとブルームレスの間で格闘しているのである。

     
   
 
 

お二人の話を聞きながら、私は伝統について考えていた。伝統とはただ守ることではない。社会に照らして本来あるべき姿へと改革することだろう。どんなにいいものでも、時代の新しい息吹に触れないと続いていかない。違う方向に進んでいれば転換することもある。

接ぎ木に喩えるならば、支えるのは、脈々と守り継がれてきた元の木である。元の木の常態がどんな限界を持っているか、どんな芽を受け入れて、どんなものを弾き飛ばすかをよく見て、改革という接ぎ木をするだろう。

藤沢農業ではその努力がなされているのだ。亀井さんような長年の経験と知恵と実績が培ってきたものを受け継ぎ、宮地さんの起業精神が時代のパイオニアとなる。そんな藤沢農業の伝統を見守っていきたいものである。

 
市民記者 No.308 風姿マニマニ
 
■コラム: きらきらのあの日
「ピンチはチャンス!」
2008年10月17日

3年前、仕事に一区切りつけて旅に出た。滞在先はキューバ共和国のハバナ。ビザを申請して許可される期間は、30日である。フル活用したくて、ホームステイを決めた。多くの人から、怖くは無かったのかと訊ねられる。社会主義国ということで、自由を剥奪されているイメージがあるらしい。しかし、街のいたるところに音楽が流れ、道行く人達が人なつっこく声をかけてくれるハバナは、旅人としての良識を持っていれば、安全で過ごしやすい。

貧しいけれど、教育費、医療費が全て無償という制度は、福祉国家という方が相応しいのではと思った。コロンブスによって発見されたキューバは、今では先住民が絶滅し、スペイン人とアフリカ奴隷にルーツをたどる国で、ムラートと呼ばれる混血が半数以上占める国である。世界で一番人種差別の無い国だと、人々は誇らしげに言う。

     
   
     

土地勘も掴めるようになると、どうしても見学したい場があった。小学校である。長年、教師をしてきたこともあって、海外に行くと、ついその国の学校教育が気になるのだ。キューバは識字率も高く、音楽、スポーツ、ダンスのみならず、南米映画祭も開催される文化国家だということは、情報として得ていた。

でもね。せっかく足を踏み入れたのなら、自分の目で見なくっちゃ。学校といっても、日本のように立派な校舎はない。「 Escuela Elemental」という看板があれば、それが学校だと教えられた。一戸建ての校舎もあれば、ビルの一角にも看板を見る。子供のいるところでは、既存の建物を転用して学校にしているそうだ。意を決して、とある小学校の門を叩くことにした。試合をするわけではないけれど、他流試合を申し込む道場破りの気分かと、緊張することしきりだった。

     
   
     

中に入って、職員室で自己紹介をした。予習したスペイン語はここまでで、後が続かない。言葉の壁は織り込み済みだったので、私は持参した荷物を開いた。まるで、テキ屋だ。寅さんみたい。最初に取り出したのは、剣玉だった。若い男性教師が、自分もやると言ってくれた。少し場がほぐれたところで、折り紙で鶴を折る。拍手が起きて、三番目の最終持駒を披露した。聞けば、校長の名前はクラークとのこと。巻きの障子紙を広げて、筆に墨汁をつけて、大きく「苦楽」と書いた。これが、予想以上の反響となって、先生方が次々に自分の名前を漢字で書いてほしいと言う。こんなやりとりが言葉の壁を越えて、想いは届いた。

     
   
     

私は、学校見学できたばかりでなく、ある先生のお宅にも誘われ、卒業パーティーに参加する幸運にも恵まれた。唐突な押しかけ訪問を受け入れてもらえた出来事が象徴的で、キューバの学校制度は柔軟だった。統一のカリキュラムはなく、子供の実情に合わせて、学校が独自に工夫している。そこに、キューバの高い教育水準の鍵があるのではないかと思うのである。

 
 

風姿マニマニ


大分県は耶馬溪の山村で生まれ、博多・長崎・京都を経て藤沢在住33年。銀行員などを経験後、一念発起で教員免許取得、以降、藤沢市の小学校の先生に。25年の教員生活の区切りをつけたキューバでのホームステイで社会と文化、人間性のあり方に刺激を受け、市民記者に応募することに。



 
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「市民記者養成講座」は慶應義塾大学金子郁容研究室(文部科学省/現代GPプロジェクト)と藤沢市の共同で開催され、ISIS編集学校(編集工学研究所)のカリキュラムの一部が利用されています。また、この市民記者のページは編集工学研究所のサポートで運用されています。