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☆お知らせ☆
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市民記者のみなさん
  
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清流ひょう箪
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風姿マニマニ
古川裕康
ミラー・サウンド
ライ丸
落雁亭
 
電縁都市ふじさわ市民記者養成講座を修了したみなさんです。
 
市民記者 No.109 紙風船
 
■コラム:ゆったり悠游庵 -24
「江ノ電ータンコロまつり」
2008年11月7日

今年も11月23日(金)に江ノ電のお祭り「タンコロまつり」が開催されます。江ノ電ファンならば一度は訪れたい「まつり」でしょう。開催場所は極楽寺検車区です。極楽寺駅から藤沢方面へ2〜3分歩いたところにあります。今年で23回目です。
そのまつりの目玉は昭和初期から昭和55年まで走っていた「108号」の車両です。普段は検車場にしまわれていますが、年に一度戸外に展示されます。今でも動くように整備されています。

     
   
  江ノ電ファンに人気のタンコロ
 
     
   
  108号に自由に乗車できます極楽寺検車区にて
 

その「108号」の車内は昔のまま、当時の木製の床の香りや感触が蘇りました。40年前の江ノ電通学していた頃に・・・当時は長谷駅から乗車し、いつも決まったドアの手すりにつかまって、江ノ電の揺れに身を任せて、七里ガ浜を横目に見ながら、友人と青春を語りあった頃にタイムスリップしました。
他に江ノ電の記念品が販売されています。

     
   
  「七里ガ浜駅」の時刻表は2000円で、
左端に何本か見えるドアの手すりには
50円の値札が付いていました
 
     
   
  「サーフボード車内持込禁止」
こんな看板まで販売されていました(1000円)
 

その他には行き先表示板の「鎌倉」「藤沢」も販売されていたそうですが、私が訪れた11時にはもう売り切れてありませんでした。販売値段は高いのやら安いのやら・・・江ノ電への思い入れの強さで、その価値は変わってくるのでしょう。

現在の江ノ電は2両編成の連接車両で走っていますが、以前は1車両だけで藤沢→鎌倉間を走っていました。明治35年(1902年)9月1日に開業された時は、木造4輪の単車が4台準備され、運行していました。大正時代に車両数は24台になりました。

     
   
  江ノ電1号車
木造4輪単車(定員数は30人〜40人)
 

昭和初期には4輪単車に代わってボギー車が導入され、車両が大型化されました。江ノ電の利用客も増え、車両を改造して昭和31年には「2両連結車」、「2両連接車」へと改良されていきました。単行車両で走っていたボギー車(101号〜117号)をいつしか「タンコロ」と親しみを込めて呼ぶようになりました。この「タンコロ」のうち、最後に引退したのが「107号と108号」でした。
昭和55年(1980年)に107号は鎌倉市に寄贈され鎌倉海浜公園に展示され、108号は極楽寺検車区に
保存されることになりました。
「タンコロまつり」ではこの「108号」の懐かしい姿が検車場から出てくるのが見えます。108号はATS(自動列車停止装置)を備えてないので、現在は本線で走ることはできません。

次のような催しもありました。

     
   
  ミニ江ノ電(モモ電)の乗車会。運転士
の後ろには沢山の子供達が乗っています
 
     
   
  会場には鉄道模型があり、中央のひな壇
には歴代の江ノ電が飾られています
 

≪参考資料≫「江ノ電 車両ガイド」江ノ電沿線新聞社発行
      「グラフ江ノ電の100年」江ノ島電鉄株式会社発行

※写真「江ノ電1号車」は代田良春氏(元江ノ島電鉄取締役鉄道部長)の
   講演会で展示されていた江ノ電模型を撮影したものです。
   その他の写真は2006年11月19日(小雨)の「タンコロまつり」で
   撮影したものです。

 
市民記者 No.109 紙風船
 
■コラム:ゆったり悠游庵 -23
「みんなで利用しよう! 無料のパソコン教室!」
2008年10月6日

みなさん、ご存知ですか? 藤沢に無料のパソコン教室があることを!!
しかも皆さんの好きな時間に行って、好きなテーマで、納得するまで教えて頂けます。「一日2時間学習しよう」と決めて毎日通って来る方もいらっしゃいます。

こんな便利な教室ですが意外にも市民に知られていないように思いますので、今日はみなさんにご紹介しましょう。

     
   
  NTTビル1階が教室です
(右奥の建物は藤沢税務署)
 
     
   
  「Let'sふじさわ」の入口
 

この教室はNTT藤沢ビル1階(藤沢税務署の隣)にあります。この教室の正式な名前は「Let’sふじさわ パソコン相談室」です。
ここには16台のノート・パソコンが常時設営されています。Windows XP(15台)とWindows Vista(1台)が使い放題です。藤沢市民、または勤務先が藤沢の方ならどなたでも利用できます。

相談室には常時2人のスタッフが待機しており、皆さんのご質問・・・例えばインターネット、メール、ワード、エクセル等の分らない事・・・に答えて頂けます。親切丁寧に教えてくれます。また自分のノート・パソコンを持ち込んでも大丈夫です。ここは「相談を目的」とした方でも、「パソコンを使うことを目的」とした一般の方でもどちらでも利用出来ます。

     
   
  中央に6台、まわりの壁際に9台のパソコンが
あります。インターネットも利用できます。
 

「Let’sふじさわ パソコン相談室」は、藤沢市が2003年10月に「気軽に立ち寄り利用できる場所」として開設しました。スタッフは「市民ボランティア団体IT講師懇談会」に所属しており、日替わりで皆さんの相談に答えています。当初は週2回の相談日でしたが、現在は毎日相談できます。
また金曜日午前中は「ワード」「エクセル」「パワーポイント」「年賀状作成」「デジカメ取込み」「名刺作成」「ポスター作製」など様々なテーマで講座を開催しています。どうぞ皆さん、気軽に立ち寄ってみませんか!

最後に私ごとですが・・・私、紙風船は2年前にIT講師懇談会のメンバーになりました。その時初めて「let’sふじさわ」の存在を知りました。相談者の皆さんと交流すればするほど「藤沢にはこんな素晴らしい場所があるんだ」という思いが強くなり、コラムで皆さんにお知らせしたくなりました。

「家族に聞いてもうるさがられたり怒られたりして…気兼ねする。でもここでは優しく丁寧に教えてくれる」との声が多く聞かれます。60代、70代になって初めてパソコンに挑戦する方が藤沢には大勢いらっしゃるように思います。好奇心旺盛な藤沢市民のパワーを感じる日々です。

≪お知らせ≫
利用時間:月〜木(9:00〜17:00)
     金(13:00〜17:00)
講座開催:金(9:30〜12:30)(テキスト代500円)
休館日 :土・日・祝日

「Let’sふじさわ」のHPは
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~lets/index.htmlです。
*湘南台文化センター内にも「Let’sふじさわ」を開設しています。
 詳細はHPをご覧ください。

 
市民記者 No.109 紙風船
 
■コラム:ゆったり悠游庵 -22
「海」の江の島で「山」の味?
2007年11月09日

江の島で信州そば粉を使った「二八(にはち)そば」を味わうことができるのをご存知ですか? 市民記者になって1年が過ぎ、これまでにも取材をかねて何度か江の島へ行きましたが、「二八そば」のことは知りませんでした。

先日、「山の幸・信州手打ちそば」を「海の江の島」で食してきました。あまりにも美味しかったので、またこの「二八そば」の事は藤沢市民に意外と知られていないのではないかと思い、体験談を書くことにしました。

江の島サムエル・コッキング苑の中には藤沢市と姉妹都市であるマイアミビーチ市(アメリカ)、ウィンザー市(カナダ)、保寧市(ポリョン市・韓国)、松本市(長野県)、友好都市の昆明市(中国)などを記念する広場、バラ園、建物・・・等々があります。

そのコッキング苑の奥の片隅に今回の目的の「松本館」があります。その建物は一際目を引く「なまこ壁」ですが、「館」の横や手前のウィンザー広場には藤沢市指定の天然記念物「クックアロウカリア」「シマナンヨウスギ」「タイミンチク」などの亜熱帯植物が数多く生育しているので、残念ながらメイン通りからは見えません。

この「松本館」で「信州そば」を味わうことができます。また「そば打ち体験教室」も開かれています。「江の島で美味しいそばを食べさせてくれて、そば打ち体験もできるところがあるから…」と知人に誘われて、仲間5人と行ってきました。

     
   
  「なまこ壁の松本館」
 

この教室では香りがよくコシのある信州そば粉(信州より直送)を使って、一番おいしいと言われる「二八(にはち)そば」作りを教えてくれます。
「二八」というのは「そば粉8」に対して「小麦粉2」の割合をいいます。

そば作りのポイントは…そば粉とつなぎ(小麦粉)に水を加えてまとめ、「こねる→のばす→切る→ゆでる」…この一連の作業を生地が乾かないうちに一気に仕上げる事です。

いとも簡単な講師の説明でしたが、実際にやってみるとなかなかうまくいきません。特に「のばす」作業が一番難しくて、講師に何度も手伝ってもらいました。

     
   
  「こねる」
 
     
   
  「のばす」
 
     
   
  「切る」
 
     
   
  「ゆでる」
 
     
   
  「完成品」
 
     
   
  「大勢の心強い講師陣」
 

この日は受講生10名に対して講師が9名でしたので、ほとんどマンツーマンで教わることができました。講師の方達は全員がボランティアで、藤沢市観光協会主催の「そば打ち指導者養成講座」を卒業されています。この養成講座は2003年の「松本館」オープンに合わせて開講されたそうです。

受講生たちは松本市のそば打ち名人から本場の技術を教わり、練習を重ねて、現在では「初心者体験教室」を開くまで腕をあげられ、ボランティア講師として活躍されています。皆さんはサラリーマン出身の方が多く、「そば打ち」の経験はないとのことでしたが、「こねる→のばす→切る→ゆでる」の一連の作業はプロ並みで、その技術の高さには驚かされました。

この体験教室は月3回開催されています。先日の参加者の中には、ミニコミ誌で松本館を知って横浜から来たという人もいました。興味のある方はぜひお勧めします。もちろん体験教室以外の日には、信州名物の手打ちそばを味わえます。

     
   
  「もりそば(600円)」
 

最後に「なまこ壁」について・・・
土蔵の腰に好んで用いられる工法です。大名屋敷や城壁の外壁にも見ることができます。平瓦を貼り付け、格子型になった目地の部分を漆喰で馬乗り型や四半型に盛り上げて塗ります。その盛り上がり方がなまこに似ているところから、なまこ壁と言われるようになりました。信州松本には「なまこ壁」の古い町並をたくさん見かけます。
ご参考までに…http://plaza.rakuten.co.jp/siroihana/33011
 このHPでは信州松本の「なまこ壁」古い町並がたくさん載っています


≪体験教室のご案内≫
・月3回開催
・第2・4水曜日の午前10時と午後1時30分の2回。
 第3土曜日の午後3時から1回
・水曜日は12名、土曜日は8名募集
・予約先着順で、成人のみです
・費用1000円(コッキング苑の入園料200円+実費800円)
・申込・問合せ…社団法人藤沢市観光協会 
        電話 0466−55−4141(土日祝日除く8:30〜17:00)
・メールの場合… http://www.fta-shonan.jp/soba/matumotokan-soba.htm

 
市民記者 No.109 紙風船
 
■コラム:ゆったり悠游庵 -21
「藤沢の海をささえてきた人たち」
2007年04月04日

藤沢の海をささえてきた人たちといえばすぐに思い浮かぶのは漁業にたずさわっている人たちですが、その他にも海を生業とする人たちがいます。
今日は「海が大好き、海をこよなく愛してきた職人さん」をご紹介します。

その方は田中啓三さん(58歳)(ニックネームはGoroゴロー)です。
青森県出身で21歳から藤沢に住んでいます。サーフィンが大好きで、現役のサーファーです。趣味が昂じて31年前に手作りのサーフボード製作者になったそうです。
大手の工場で8年間サーフボードを作り、その後藤沢市小塚にある「(株)ダイアナコーポレーション」というサーフボード会社(サーフボード製作者の集団)で23年間サーフボードを製作しています。

「藤沢の何処でサーフボードを作っているの?」と思いながら、見学会の集合場所に行きました。小さな町工場の2階が事務所兼仕事場でした。
「サーフボード」の看板が出ていないので、ここで「手作りのサーフボード」が作られているなんて思いもしませんでした。

訪問した日は田中さんを含めて3人の方が働いていましたが、仕事の工程により8人から9人で作業するそうです。
仕事場は6ヶ所の小さな部屋にわかれています。それぞれの部屋の中は粉塵が舞い上がり、塗料が飛び散り、鼻を突く匂いで頭が痛くなりそうです。
ここは「くさい、きたない、きついの3Kの職場」と笑いながら話されていました。
製作中はTシャツ、半ズボン、スニーカー姿で、部屋も仕事着も塗料まみれです。粉じん除けのマスクも必需品です。

     
   
  田中啓三さん(ニックネームGoroさん)
後方の若者は青色の塗料をかけたあとの始末
 

サーフボードの出来上がりまでを少しお話します。ボードの原型はポリウレタンを型に流し込んで発泡させ、重さや強さを増すためにボードの中心を縦割りにして補強材の木材を接着して加工するそうです。日本では「気候がポリウレタンの発砲に向いていない」、「コストが高い」という理由で生産されていません。アメリカやオーストラリアから輸入しているそうです。

     
   
  手前の白ボード(大小2本)が原型
中心の茶色の線(大)、白い線(小)が
補強材である
 

完成までには8工程あり、1日1工程ずつ仕上げるそうです。
簡単に言うと『シェイプ』→『ラミネート』→『仕上げの磨き』です。

1)シェイプ
  ボードの原型をカットし削り上げていく。サーフボードを製作する
  中では一番重要な部分であり、ボードの曲線、厚み、そりがこの
  工程で決まる。
  荒いやすり、細かいやすりをかけ、フィン(舵)を立てる位置を
  決める。
  最後にシェイパーのサインを入れる(製作者のサイン)。
  田中さんはニックネームの「Goro Tanaka」とサインするそうだ。

2)ラミネート
  シェイプされたボードにファイバーグラス(ガラス繊維の布)を
  貼って強度を増す。さらに顔料に硬化剤を混ぜた樹脂(塗料)で
  模様を描く。
  15分で塗料が乾燥するので、一気に描かなければいけないし、
  失敗も許されない。

     
   
  ボトム側にファイバーグラスを貼る
 
     
   
  一気に模様を描く
樹脂の匂いがクサイ!
 
     
   
  ボトム側の模様完成
ベージュ地に波しぶきのデザイン
(お客のニーズに応えて)
 

田中さんはペインティングしながら「これはアートの世界ですよ、芸術ですよ。こんな楽しいことはないですよ」としみじみ言われていた。「藤沢の海が大好きで、サーフィンをこよなく愛し、仕事が楽しくてしかたない」と言えるなんて、うらやましいと思いました。
仕事中でも「いい波」が来れば、仕事を中断して全員でサーフィンに行くそうです。中断した仕事は戻ってきてその日の夜に仕上げます。
なんとも「いい笑顔」、「海の男の顔」「波を知りつくした顔」で話されていました。

3)仕上げの磨き
  この磨きがまた重要である。シェイパーのデザインしたサーフボード
  の「美しい曲線・機能」を崩さないようにピカピカに磨き上げる。
  ここの仕事場には磨き一筋という「大野政満さん」という大ベテラン
  の方がいる。

     
   
  30年以上のベテラン大野政満さん
仕上げの磨きをかけている
 
     
   
  大野さんの磨いたサーフボード
 

「大野政満さん」は聾唖の方だったので直接はお話を伺うことが出来ませんでしたが、田中さんの話によると・・・
出身は大阪岸和田で、30年以上も前から藤沢でこの仕事をされているそうです。
大野さんは20年以上前にNHKの「新日本紀行」で取材を受けたそうです。
先日、「新日本紀行 ふたたび」でNHKの取材を再度受けたそうです。
もちろんこの仕事場も『4月14日(土)午前11時〜』に放送されるそうです。
当時(30年位前)の藤沢の「暮らし」や「海」や「サーファー事情」などが放送されるのかと思うと今から楽しみです。

最後にサーフィンの歴史を少し・・・
サーフィン発祥の地はハワイといわれている。もともと先住民の遊びであった。
日本で初めてサーフィンをした場所は藤沢鵠沼海岸である。横浜や横須賀基地の米兵たちがサーフィンをするうちに、サーフボードを地元で預かるようになり、米兵のいない時に地元の青年たちがボードを借りて、サーフィンを覚えたそうだ。
1965年鎌倉海浜ホテルで初めて「サーファーの会合」が開かれた。
サーフィン最盛期の頃は大手のサーフボード工場では月に400本製作していたが、現在田中さんの仕事場では月に60本ぐらい製作している。
現在では「朝イチ サーファー」「夕方5時からサーファー」という湘南スタイルのサーファーが増えているという。若い頃にサーフィンしていた人たちが30、40代になって、藤沢に家を買って戻って来る人たちが年々増えている・・・・・
                      以上田中さんの話より

サーフィン自体は1950年代に駐留軍の米兵によって初めて日本に持ち込まれたといわれている。1970年代に入って若者向け雑誌「POPEYE」(ポパイ)でサーフィンが紹介されていくうちに、アメリカ西海岸やハワイが中心だったサーフィンが茅ケ崎から鎌倉にかけて広まっていくのである。サーフショップが増え、サーファー人口が急激に増え、1980年代にはサーファーファッションがブームになる。ファッションだけを真似る「陸サーファー」(おかサーファー)の若者が急増するのである・・・・・
                     以上「湘南の誕生」より

     
   
  団塊世代が目立つサーファー(4/1)
七里ガ浜にて
 
     
   
  春の海(七里ヶ浜)(4/1)
 
 
市民記者 No.109 紙風船
 
■コラム:ゆったり悠游庵 -20
「藤沢の歴史−『蔵まえギャラリー』として
               よみがえった商家」
2007年03月02日

藤沢駅北口から遊行通りを朝日新聞販売店で左折して、旧江の島道を遊行寺方面へとブラブラ歩いて行くと、道沿いの左側に間口の広い古い家がある。

もう10年ぐらい前になるだろうか。
この家は古くて真っ黒という印象だった。ここは私の仕事上の取引先だった。当時は「榎本米店」の古い看板が掲げられていたが、家業の「米屋」を辞めてずいぶんと月日が経っているように思われた。その頃は老夫婦二人だけの静かな生活だったのを覚えている。

その古い家がよみがえっていた!
「蔵まえギャラリー」としてよみがえっていた!

     
   
  明るくなった「蔵前ギャラリー」
間口はガラス戸8枚である(間口四間の広さ)
 

間口がこんなに広い家だったのかと、改めて驚いた。私が訪れていた頃は半間のガラス戸だけが出入り口として使われていて、あとはカーテンで暗く閉ざされていた…とにかく古い家で目立たなかった。
それが今ではこの家が目立つのである。間口全体が明るくなり開放的になっている。この前を通ると思わず中を覗きたくなる。

さっそく中に入って、いろいろ話を聞いてみた。
責任者の佐野晴美さんに詳しく教えて頂いた。佐野さんは市内中学校の美術の先生である。この「蔵のある家」が気に入って、仲間4人で借りて手入れをし、去年6月から「蔵まえギャラリー」として活動し始めたそうだ。
中もいろいろ見せてもらった。

     
   
  モダンになった土間
ギャラリーとしてよみがえる
 
     
   
  土間の片隅に畳の間(6畳)
立派な神棚が見える
 

土間の片隅は一段と高くなって畳が敷かれている。6畳の広さである。立派な神棚が当時を偲ばせる。中央奥には作りつけの金庫が今もある。
昔はここで商いをしていたのだろう。

佐野さんに「蔵まえギャラリー」の名前の由来を尋ねると「この辺りの昔の地名だったらしい」とのこと。このギャラリーを運営することによって、少しでも建物の保存につながれば嬉しいし、またここが地元情報の発信地になれば素晴らしいとも言われていた。

現在は「昭和初期のお雛さま」が土間や畳の間に4点展示されている。

     
   
  昭和4年頃のお雛さま
御殿つき雛壇である
両脇にはつるし雛
 
     
   
  御殿付きの雛壇
昭和15年頃に飾っていた
 
     
   
  昭和15年頃の雛壇
 

この家について少し調べてみた。
家の両側には蔵が二つある。左側に白い蔵(外蔵)と右側に黒い蔵(内蔵)がある。白い蔵は米を貯蔵していた。

     
   
  真ん中が商家
手前が白い蔵、奥が黒い蔵
 
     
   
  右側に黒い蔵(内蔵)
 

・・・この家は関東大震災(1929年S.4)の後に建てられ、米蔵・店舗・内蔵とつづく表間口は昭和初期の典型的な商家の造りである。
「榎本市右衛門」は、藤沢の白米商界では業績顕著であり、山市(やまいち)の商号で著名だった。
藤沢宿ではこの地域は「蔵前(くらまえ)」と呼ばれていた。現在では地名として残っていないが、町内会名に「蔵前」が使われている・・・
   〜〜郷土史研究家の平野雅道氏の「藤沢宿〜史跡を訪ねて〜」より〜〜


藤沢宿の中心部でもある「藤沢市本町4丁目」付近を散策していると、このような蔵にいくつか出会う。

     
   
  左から蔵・車庫・昔の商家
 
     
   
  常光寺門前にある
蔵の保護の為かトタン板で囲われている
窓の造りから蔵とわかる
 

≪参考に≫
お雛さまの歴史がよく分かるサイトがあります。
3月3日にお雛さまを飾るようになったのは江戸時代だそうです。
「御殿付きの雛段」は京都の特色だそうです。
京都と江戸の雛壇の違いなどもこのサイトを読むとよく分かります。
  http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/data/senshoku/hina.htm

≪お知らせ≫
「蔵まえギャラリー」
土間、内蔵、奥の座敷などでは「5day’s gallery」として1サイクル5日間で、絵画・書・写真・工業美術などを展示、2階ではカルチャー教室も開催。
     責任者:佐野晴美
     TEL:0466-25-9909
     http://www.geocities.jp/a_whto/

 
市民記者 No.109 紙風船
 
■コラム:ゆったり悠游庵 -19

「藤沢の歴史-『小栗判官照手姫』の集いに参加して-その2」

2006年12月03日

小栗伝説がこれほどまでに江戸庶民を惹きつけたのは何故だろうか!
物語のスケールの大きさ、日本人の心情に直接訴える豊かな情感とか言われているが…これはまさに「広範囲な地域を舞台にした中世の壮大なロマン」である。
「紀行文や道中記」に書かれ、また「浮世絵」に描かれ、舞台では「人形浄
瑠璃」や「説経節」や「歌舞伎」で演じられるほどの人気である。
現在でもスーパー歌舞伎「オグリ」で市川猿之助が演じている。中世から近世へ、そして現代人の心までも惹きつける。
「縁結び」あり、「毒殺」あり、「冥土の世界」あり、「娑婆の世界」あり、
「人買い」あり、「復活」あり、「仇討ち」あり・・・等々

会場の入口には「パネル展」もあり、そこで撮った写真や、東の宮美智子さんの語り芝居や、「小栗伝説ゆかりの地」を訪れて撮ってきた写真を並べて、藤沢に伝わる「小栗判官照手姫」をたどってみよう・・・


≪はじまり、はじまり・・・≫
常陸の国で小栗はある日、世にも稀な美女・照手姫が相模国にいると聞かさ
れる。小栗はまだ見ぬ照手に恋い焦がれ、恋文を送る。照手はこれに戸惑い
ながらも、返事を書いた。小栗は嬉しさに、十勇士(十人の家臣)を引き連
れて、照手の御所に押し掛けた。

藤沢宿近くの豪族横山大膳は娘照手姫の御所に、勝手に婿入りした小栗を許
せなかった。横山大膳と三男の三郎は御宅に小栗を招き、人喰い馬「鬼鹿毛
(おにかげ)」に乗せて、踏み殺そうと計略する。だが乗馬の得意な小栗は
なんなく鬼鹿毛を乗りこなす。

     
   
  歌舞伎「小栗判官 ものがたり」
序幕 第一場 京右近の馬上の場」(パネル展10/14)
 
     
   
  荒馬鬼鹿毛を乗りこなし、碁盤の足の上に乗る小栗判官
伝岩佐又兵衛「小栗判官絵巻」第7巻9段より
(パネル展)
 

怒りのおさまらない横山大膳は三男三郎の進言で酒宴を催し、毒酒を盛って
小栗と十勇士を皆殺しにする。小栗は土葬され、家臣は火葬された。そして
照手姫も同罪として腰越の境川に流された。
県道403号線(菖蒲沢−戸塚)の傍らに小栗判官が埋葬されたという塚がある。

     
   
  小栗塚の碑(10/16)
(小栗埋葬の地−西俣野)
 

地獄に落ちた小栗判官と家臣。
家臣の必死の願いと閻魔大王のはからいによって、小栗はこの世に「餓鬼の
姿」で戻ることが出来た。この餓鬼の胸には閻魔大王自筆の札がかけられていた。
その胸札には「この者を藤沢の上人(しょうにん)に渡し申す。この者を熊野
湯の峯で養生させよ」と書かれていた。

     
   
  小栗判官地獄の場(10/16)
花應院(かおういん)−西俣野
 

    
    地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の六つの世界。
    亡者の罪にその判決を下すのが閻魔大王。
    餓鬼(餓鬼道)・・・体は痩せ細り、のどは針のように細く、常に飢えに
    苦しんでいるという。

県道403号線を挟んで小栗塚の反対側に土震塚(すなふるいつか)がある。
蘇った小栗がここで身体に付いた土をふるい落として塚ができたといわれて
いる。
小栗塚が「冥土への入口」ならば、土震塚は「娑婆への出口」と言われている。

     
   
  榊の古木がある土震塚(10/16)
(小栗蘇生の地−西俣野)
 

「藤沢の上人」は餓鬼の胸札に「この者を一引けば千僧供養、二引けば万僧
供養」と書き、「この者を餓鬼阿弥と名付ける」と書き加えて、「土車(つ
ちぐるま)」に乗せたのである。

     
   
  「土車」と「餓鬼阿弥」と「藤沢の上人」
伝岩佐又兵衛「小栗判官絵巻」より(パネル展)
 

中央で黒く汚れて地べたにへたり込んでいるのが「餓鬼阿弥」である。髪は
なく、手足は糸より細く、足腰立たず、目も聞こえず、耳も聞こえず、口も
きけず、ただ這い回るだけである。「餓鬼阿弥」の傍にいるのは「藤沢の上
人」である。小坊主たちが土と木で「土車」を作っている。

     
   
  土車に乗せられた餓鬼阿弥
伝岩佐又兵衛「小栗判官絵巻」より(パネル展)
 

道中、「藤沢の上人」の徳をいただこうと、人々は村から村へと・・・
      一引けば千僧供養(せんぞうくよう)
      二引けば万僧供養(まんぞうくよう)
      えいさらえ えいさらえ えいさらえ えいさらえ
・・・と唱えながら「土車」を「熊野湯の峯」へ向けて引いていった。
あろうことか横山一族でさえもまさか小栗の変わり果てた姿とはつゆ知らず、
川流しにした「照手の供養に引けや」と五町だけ引いたのである。

さて一方、腰越の境川(相模川とも言われている)に流され、一命を取り留
めた照手姫は人買いに売られて各地を転々とし、辿り着いたのが美濃の国
「青墓の宿(おうはかのしゅく)」であった。「常陸小萩」と名付けられた
照手姫は操を守るため、遊女になることを拒み、水仕女(水汲み女・下働き
女)として苛酷な労働に耐えていた。

餓鬼阿弥を乗せた「土車」はとうとう美濃の国「青墓の宿」に差し掛かった。
餓鬼阿弥の胸札を見た照手は「たとえ小栗様があのようなお姿でも生きておいでならば、どんな苦労も辛くは思わないものを… 車を引きたやな」と三日の暇を願い出た。

     
   
  語り芝居「てるて姫伝説」の「東の宮美智子さん」
演奏は馬場鶴生(かくせい)氏(琵琶・パーカッション)(藤沢公民館にて10/14)
 

      東の宮(とうのみや)美智子さんの「語り芝居−てるて姫伝説」
      (ひとり芝居)が、藤沢公民館で上演された。
      艶があって、張りのある朗々とした声だった。
      一心不乱に土車を引く照手姫の姿は辛く、物悲しく人々の涙を
      誘う場面である。


目の前にいる「餓鬼阿弥」が我が夫とも知らずに、毒殺された夫を思いなが
ら・・・
     一日は夫の小栗様の御ために
     二日は小栗判官の家来十勇士の御ために
     えいさらえ、えいさらえ えいさらえ えいさらえ
・・・と手には笹の枝を持ち、髪を振り乱して一心不乱に「土車」を引いた
のである。

     
   
  一心不乱に土車を押す照手姫
伝岩佐又兵衛「小栗判官絵巻」(パネル展)
 

「青墓」から「大津」まで「土車」を引いた照手姫は「はや今夜が三日目なり。
心にかかる餓鬼阿弥に添うて過ごすも今宵ばかり…」と夜もすがら泣いて明か
された。

     
   
  歌舞伎「小栗判官 ものがたり
   −姫競双葉絵草紙−」(パネル展)
 

やがて夜も明けそめると、餓鬼阿弥の胸札に「水仕の常盤小萩と申します。
熊野のお湯に入られて、病が癒えましたならば必ず青墓にお立ち寄りくださ
い・・」と書き添えた。


出立して、なんと四百四拾四日が過ぎていた。とうとう熊野湯の峯につかった。
七日お湯につかると両目が開き、十四日つかると耳が聞こえ、二十一日つかる
と、はや物が言えるようになった。四十九日つかったその時は、六尺二分の豊
かなる元の小栗判官に復活した。小栗は青墓の照手姫と再会し、横山一族を征
伐するのであった。
                          ≪おしまい≫

≪参考までに≫
「みゆネットふじさわ」の<浮世絵>から「小栗判官照手姫伝説」にゆかりの
ある作品を探してみた。5点見つけることが出来た(他にもまだあるかもしれ
ないが…)

※「東海道五十三次之内 藤沢 小栗判官(役者見立東海道)」 三代歌川豊国
 http://www.mus.city.fujisawa.kanagawa.jp/php/history_item.php?id=21120 
  「小栗判官照手姫」伝説の主人公「小栗判官」を演じている歌舞伎役者の
  「坂東竹三郎」である。
   背景は初代広重の藤沢宿の遊行寺である。
   この浮世絵は遊行寺宝物館の展示案内のパンフレットに使用されていた。

※「双筆五十三次 藤沢」 歌川広重・三代歌川豊国
 http://www.mus.city.fujisawa.kanagawa.jp/php/history_item.php
   広重が南湖(茅ケ崎市)の松林の風景を、豊国が人物を描いている。
   この作品はふたりの合作である。
   描かれている人物は「小栗判官照手姫」の照手姫である。
   照手姫が引っ張っているのは…地獄から「餓鬼阿弥(がきあみ)」として
   蘇った小栗判官を熊野の湯まで乗せて行く…「土車(つちぐるま)」である。
   照手姫は目の前にいる餓鬼阿弥が「夫」とは知らず・・・
       一日は夫の小栗様の御ために
       二日は小栗判官の家来十勇士の御ために
     えいさらえ、えいさらえ えいさらえ えいさらえ・・・唱えながら

※「東海道五十三次内 藤沢 ひらつかへ二り余」 歌川芳員(よしかず)
 http://www.mus.city.fujisawa.kanagawa.jp/php/history_item.php
   歌川芳員は東海道五十三次シリーズの各宿場の伝説や逸話を
   面白おかしく描いた絵師である。
   この藤沢の場面では「侍」と「浴衣を着た馬」が囲碁をしている様子を
   描いている。
   侍が小栗判官、娘が照手姫、馬が鬼鹿毛(おにかげ)である。
   小栗判官が荒馬の「鬼鹿毛」を見事に乗りこなし、小さな碁盤上に
   四つ足を乗せて立つ場面を暗示しているのである。

※「東海道名所之内 ふちさ八 遊行寺」 橋本貞秀
 http://www.mus.city.fujisawa.kanagawa.jp/php/history_item.php
   遊行寺は、当時歌舞伎などにも取り上げられていた「小栗判官照手姫」で
   街道の名所のひとつになっていた。
   拡大した画像をよく見ると、大名行列が遊行寺橋を渡り、遊行寺坂へと
   続いている。手前に見えるのが江の島「一の鳥居」である。
   画像右の森の中に「小栗堂」と「小栗十勇士之墓」の文字が見える。

※「東海道五十三次対 藤沢」 歌川国芳
 http://www.mus.city.fujisawa.kanagawa.jp/php/history_item.php?id=21105 
   この作品は下3分の2が人物画で上3分の1が下の絵の説明になっている。
   画像を拡大してみると、上の説明文に「小栗小次郎」や「照手」の名前が
   読める。左下には土車とそれを引いた綱が見える。
   小栗判官が熊野の湯の峯につかり、餓鬼阿弥から蘇生したところを
   暗示している。


≪お知らせ≫
1)タイミングよく、「生涯学習課博物館準備」主催の講座があります。
※古文書講座〜和讃「小栗判官照手姫」を読む
   12月5日・12日・19日  pm6:00〜pm8:00  藤沢市役所7F
   12月10日は辻堂茂兵衛資料館(見学) pm1:30〜4:00
   ・全4回(12/10を除いて全回)出席できる人(30名)
・申込み 生涯学習課博物館準備担当 TEL(46)5106

2)生涯学習大学かわせみ学園の放送通信学科インターネットコースで「小
  栗判官照手姫」を聴くことができます。興味のある方はどうぞ!
  http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/manabi/data06977.shtml 
     講師は郷土史研究家の「平野雅道氏」です。

 

参考文献
   「東海道藤沢宿」 三浦俊明 (名著出版)
   「図説 ふじさわの歴史」藤沢市
  「藤沢の地名」  藤沢市
  「説経『をぐり』と小栗街道」和泉市立人権文化センター

 
 

紙風船


長谷駅から通学していた鎌高OGで江ノ電大ファン。春が大好きな「のんびり屋」というが、ジャズダンス歴18年、パソコン歴8年、旅行歴3年というアクティブ派。2003年の乳がん体験から、ますます活発に。稲村ガ崎のレストランで「夕日の沈む江ノ島と富士山」を見ながらのコーヒーが最高と。



 
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「市民記者養成講座」は慶應義塾大学金子郁容研究室(文部科学省/現代GPプロジェクト)と藤沢市の共同で開催され、ISIS編集学校(編集工学研究所)のカリキュラムの一部が利用されています。また、この市民記者のページは編集工学研究所のサポートで運用されています。