トップページへ
 
☆お知らせ☆
市民記者3期生
いよいよデビュー
 
市民記者のみなさん
  
アロハ亭夢子
板倉慶隆
大野 滋
影法師
湘太
郡司 薫
本野木阿弥
キバライトトンボ
紙風船
えのじょなおこ
サーフ・ライター
TOMU
まつぼっくり
ヒゲヤマ
三丁目の夕日
藤沢アナログマシン
流想花
自由人@オキモト
プリズム7
ゆきうさぎ
おりづるらん
土井 隆
Arbol Viejo
ichipooh
いっぱん@庶民
さりぃ
清流ひょう箪
東 善治
funkymonk
風姿マニマニ
古川裕康
ミラー・サウンド
ライ丸
落雁亭
 
電縁都市ふじさわ市民記者養成講座を修了したみなさんです。
 
市民記者 No.301 Arbol Viejo
 
■コラム:江の島の〈自然に学ぶ〉〈歴史を展く〉
「東京オリンピックは江の島を変えた」
2008年10月17日

1973年頃、腰越に住んでいたので子供たちを連れてよく片瀬東浜へ泳ぎに行った。日によっては、海水に微かにドブの臭いのあることがあり、「江の島大橋のせいだ!」と思った。あの堅固な鉄筋コンクリート製の橋脚が立っていたのでは、島を巡る潮の流れは大きく遮られてしまう。遡ること20年前、1950年頃に江の島を訪れたとき、「江の島弁天橋」の足下を波がサラサラと流れているのを興味深く見たのを記憶している。

外洋から寄せる波は、島を東西から巡ってぶつかり、現在の「江の島大橋」と「江の島弁天橋」の位置に運んだ砂を堆積させて「陸繋砂州」を形成する。まだ橋が無かった、あるいは古い木製の橋が架けられていた時代には、堆積した砂も次の満潮のときには洗い流されて元の水深を回復したものであろう。一方堅固な橋脚が設置されてからは、堆積した砂は橋脚の根元から洗い流されることはなく、ズンズン溜って動かず、ついには東西の水流を遮るまでになった。「以前は島の周囲を海流が周回するように流れて、片瀬東浜の水を新鮮なものと入れ替えていた」に違いない。(参考:腰越漁港改修検討委員会議事録、平成12年3月26日、宇多委員:川・海・砂の動きの専門家の発言)
1964年の東京オリンピックのヨット競技が江の島沖で行われることになったのは、その後の江の島とその周辺の環境や地勢にとって幸だったのか不幸だったのか。「江戸時代と現在の江の島の地図を比較すると、江の島の東3分の1は埋め立てられた事が判ります。埋め立てられた場所は北側の公園や緑地となっている部分から聖天島、神奈川女性センター、ヨットハーバー、桟橋、白灯台の部分です。要するに平らな部分は殆どが埋め立て地と言う事になります。」
(江の島マニアック:http://mirabeau.cool.ne.jp/enoshima/maniac/umetate.html
島の東側は昔は東浦と呼ばれ、岩礁が多く、江の島の名物といわれている「さざえ」が多く採れた。また、子供達の絶好の遊び場で、一面は浅い磯が続いていて江の島でもっとも美しい磯と言われていた。今は無い。
(参考:江の島の橋と磯 http://www8.plala.or.jp/shounan/new1503.html

このように埋め立てられてしまった江の島の現状をとらえて、現在では次のような認識が受け入れらている。「ここで述べる“江の島”とは、湘南港がつくられる以前から存在している自然の島の部分を示し、“湘南港”とは、埋立てによりつくられた部分を示す。」(参考:湘南港(江の島ヨットハーバー)のあるべき姿提言書 平成15年11月 湘南港のあるべき姿検討懇話会)提言書によれば、“湘南港”も開設当時からの社会情勢の変化を受けて、その利用について考え直す時期に来ているとし、あるべき将来の姿を述べている。失われた自然と引き換えに飛躍的に発展した江の島があるのもまた事実であるが、45年を経過するとその繁栄も、銀座の人ごみと変わりなく、ますます失われた自然の重さを感じる。

東京オリンピックが押していたので仕方がないが、江の島を改造するにしても、あのような突貫工事計画ではなく、例えば、「江の島大橋」は吊橋にして海流を確保するような懐の深い計画で臨んで欲しかった。昔、ある漁港の入口の傍らに大きな岩があった。海洋学が専門のある老教授は、常々「あの岩は決して取り除いてはいけない」と注意していたが、海軍の将校が砲撃訓練の目標に丁度良いと言って砲撃し、岩を破壊してしまった。漁港には見る見るうちに砂が流れ込んできて、ついには漁港は埋まってしまったという。自然の力の大きさ、専門家の知識の素晴らしさ、学問をおろそかにする愚か者の愚行を思う時、いつもこのエピソードを思い出す。襲来が予想されている大地震で、江の島は、再び隆起するか沈下するか、その時「湘南港」は、「江の島大橋」は、「陸繋砂州」はどのように変貌するか。見てみたい。

 
市民記者 No.301 Arbol Viejo
 
■コラム: 藤沢でがんばる畜産・農業
「農業の発展を支える情報の発信」
2008年10月17日

 (株)みやじ豚の宮治社長の講演を聞いて、日本の農業の活性化と将来の拡大に重要なことは、消費者の要望を受け止めた生産者からの情報発信であることが分かった。

 スーパーマーケットや店頭で一旦流通過程を経由した農産品を購入する時には、消費者からは生産者が見えないし、生産者からも消費者が見えない。製品に印刷された「私が作りました」タグは、効果がありそうだが、本当に生産者が消費者に伝えたいことを表しているとは言えない。生産者は消費者に何を伝え、どのようにリードしたらよいのか、生産者と消費者の直結と情報の共有を図るために有効な方法は何かを考えるきっかけとなった。

 我が家の冷蔵庫に入っていた野菜を見てみた。なぜこのキュウリ、ピーマンとブナシメジを選んだのか、妻の判断は、「色つやが良かった」とのことだった。 キュウリには、秋田県JAこまちの表示と URL:http://www.komachi.or.jp/
 ピーマンには、JA全農いわて URL:http://www.junjo.jp/
 ブナシメジには、JA北信州みゆき URL:http://www.jamiyuki.jp/
の表示があったので、それぞれのサイトに行って見ると、その情報の質と量には大きな差が見られた。
 
 キュウリは、栽培の方針と手法が記載されていた。最低限必
要な情報である。 ピーマンは、その地域で栽培される他の野菜についてはそこ
そこの情報はあれど、ピーマンは全く取り上げられていない。
 ブナシメジは、またこのシメジを買おうと思わせる内容であった。料理法も紹介されていた。キュウリ、ピーマンには特別必要はないものの、この品物にはありがたい情報でこの製品に込める生産者の意気込みを感じた。さらに特別感心したのは、ブナシメジと同類のエノキダケの生産過程を15枚の写真で解説したり、野菜の包装に印刷されていた生産者番号から生産者の写真と一言が紹介されていたりで、生産者を取り纏めている組合の力量が窺われた。

 神奈川県ではどうか。JAの市町村レベルである「JAさがみ」のHPには生産者と消費者の直結とか生産者から消費者への情報は、わずかに「ファーマーズ・マーケット、わいわい市」の簡単な紹介があるのみで、ほとんどは金融機関としての機能の関連情報である。県レベルの「JA全農神奈川」では、かろうじて畜産部の「やまゆりポーク」の紹介で消費者への情報提供がある。
 県の農政部の情報、かながわ地産地消推進連絡会の「かながわブランド」が使えるが十分とはいえない。
(http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/nogyosinko/tisantisyo/)
農産品も生産農家も多くはないので、神奈川としては力を発揮できないのであろう。

 「(株)みやじ豚」のHPへ行ってみる。社長のメッセージがある。自らを養豚農家の子倅と呼ぶところに生産者としての覚悟が見える。農家の子倅ネットワークも構築中という。
 「僕たちの使命は、生産者である私たちが皆さんに対しておいしい豚肉を様々な方法で提供して、一次産業をかっこよくて・感動があって・稼げる3K産業にすることです。湘南地域の小さな小さな養豚農家ですが、いずれは一次産業を通じて湘南地域の活性化にも貢献できるようになりたいです。応援のほど、何とぞよろしくお願いします!」
応援しちゃいます。

 この「みやじ豚」のHPに盛り込まれている生産者の情報、消費者への呼びかけが、生産者と消費者を結びつけるに必要な情報の要素とすれば、インターネットでの発信が、その情報の機能といえる。十分その機能を発揮するためには、生産者には情報の整理、取捨選択、軽重の配分などの技術も要求される。

 
市民記者 No.301 Arbol Viejo
 
■コラム: きらきらのあの日
「WTC」
2008年10月17日

2008年9月1日

また9月11日が巡ってくる。
WTCビルが崩れ落ちるシーンを見ると、必ず想い出す忘れられない風景がある。

1984年5月、私は初めての海外出張でニューヨークにいた。JFKが近づき、空から見る摩天楼、ロングアイランドの整然としたプール付きの住宅地。ダウンタウンへ向かうハイウェイと周囲の風景。「やっと来た。これがNYだっ!」一つ一つが好奇心を刺激して、とても興奮し、気分が高揚した。

ホテルは当時WTCにあったVista Hotelで、これから3ヵ月生活するアパートが空く迄10日ほど滞在した。近くのウォールストリートのオフィスへは歩いて往復し、少し寄り道をしたり、買い物などふらりと近くを散歩しても、WTCが目標なので道に迷う心配はなかった。休日、グリニッジビレッジを見て回った午後、そびえ立つビルで気付かなかったが空模様が怪しい。急いでホテルに駆け戻った頃激しい雷雨となり、ホテルの壁を通してもの凄い雷鳴が聞こえた。それでも、ニューヨークの雷は誠に男性的で、1時間もすると雷鳴も収まった。

「そうだ、最上階の展望デッキから見てみよう」。展望デッキに上がると、まだどんよりと曇ってはいたが、北にはおなじみのエンパイアステートビル、その向こうにはセントラルパークの緑、南には自由の女神とスタッテン島、絵葉書のままの風景だった。と、マンハッタンに明るい日差しが射してきた。西を見るとニュージャージーの丘の上にかる雲の上に太陽が顔を出し、空の窓が開いたように雲間から強い日差しが漏れている。まるで海軍旗だ。下に目をやると、ハドソン川にボートが1隻大きく舵を切っていて、白く光る静かな川面に大きな波紋の陰影を作っている。「カメラ持って来なかった!」

ホテルの部屋に駆け降りて再び展望デッキに上がったときには、もうあの素晴らしい風景はなく、太陽は雲に隠れてしまいマンハッタンはグレィに沈み始めていた。「絵葉書写真は要らない」などと粋がってカメラを持って行かなかったばかりに、一生に一度とも言えるようなショットを逃した。不思議なことに、あの風景はいつでも思い浮かべることができるし、まるで網膜にプリントされてしまっているようだ。

9・11のニュースを見るたびに、永久に失われてしまったあの場所と風景を思い出す。

 
 

Arbol Viejo


ペンネームはスペインの友人たちの命名で「老い木」。一時はマドリッド移住を決めたとか。札幌生まれで東京育ち、都会っ子の好奇心は化学の世界へ。化学会社で8年の製品開発の後、3人の息子をかかえて転職。外資系保険会社で英語を磨いた国際派。「えのぽ」を陰で支える裏方のひとり。



 
藤沢市市民記者一周年記念誌「ふじ記第1号」
→ PDFデータを見る
 
コラムアーカイブ
 
■2010年 12月
■2010年 11月
■2010年 10月
■2010年 9月
■2010年 8月
■2010年 7月
■2010年 6月
■2010年 5月
■2010年 4月
■2010年 3月
■2010年 2月
■2010年 1月
■2009年 12月
■2009年 11月
■2009年 10月
■2009年 9月
■2009年 8月
■2009年 7月
■2009年 6月
■2009年 5月
■2009年 4月
■2009年 3月
■2009年 2月
■2009年 1月
■2008年 12月
■2008年 11月
■2008年 10月
■2008年 9月
■2008年 8月
■2008年 7月
■2008年 6月
■2008年 5月
■2008年 4月
■2008年 3月
■2008年 2月
■2008年 1月
■2007年12月
■2007年11月
■2007年10月
■2007年9月
■2007年8月
■2007年7月
■2007年6月
■2007年5月
■2007年4月
■2007年3月
■2007年2月
■2007年1月
■2006年12月
■2006年11月
■2006年10月
■2006年 9月
■2006年 8月
■2006年 7月
■2006年 5月〜6月
■藤沢の漁業
■藤沢の文学碑散策
■藤沢でがんばる畜産農業
■藤沢の自然と歴史
■藤沢の自然と歴史2
■藤沢の自然と歴史3
■きらきらのあの日
■きらきらのあの日2
■きらきらのあの日3
 
◆湘南映像祭出品作品集
 
 
 
「市民記者養成講座」は慶應義塾大学金子郁容研究室(文部科学省/現代GPプロジェクト)と藤沢市の共同で開催され、ISIS編集学校(編集工学研究所)のカリキュラムの一部が利用されています。また、この市民記者のページは編集工学研究所のサポートで運用されています。